2018年5月1日(火) 晴れ28℃

連休の中日、平日なので少しは空いてるかな、と車で伊吹山へ
ドライブウェーで9合目まで上がり、お花畑を散策
後、近くの醒ヶ井宿へ

伊吹山は、滋賀県と岐阜県にまたがる標高1,377mの山である

ドライブウェーは、入口は岐阜県(関ヶ原町)、終点は滋賀県(米原市) 片道全長17kmの有料自動車専用道路(3,090円なり~)
途中何箇所か車を停めれる場所があり、景色を愛でれる
菜の花満開
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サクラかな
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9合目、駐車場に着きました(標高1260 m)
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早速ソフトクリームいただきます
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まずは、よもぎソフトを。。美味~
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山頂めざし、皆さん登って(歩いて)おられます
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春霞か、けぶっております
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今はニリンソウの季節ね 絵ハガキいただきました、そして写真を撮るとヨモギ団子プレゼントって
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芭蕉も来たのね
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そのままよ 月もたのまじ 伊吹山
【歌意】
 月が見える見えないで一喜一憂している心の中では、すでに煌々と照る月が宿っているではないか。芭蕉はついに、仏頂の月を手に入れたのである。
 芭蕉は約5カ月の「奥の細道」を大垣で終えた、その大垣から伊吹山を見て詠んだ句である。
 奥の細道は9月大垣で終わるが、そこで招かれた大垣藩士高岡三郎(俳号斜嶺)亭の戸を開けると、西方に孤立した伊吹山の姿があった。花も雪にもよらず秋の月さえも不要なほど、毅然とした孤山の徳を芭蕉に感じさせたのだった。芭蕉の俳句は禅僧「仏頂」の教えを受けて一段と奥の深いものになった。
登ってはいなかったようです

今、咲いているお花
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9合目から山頂部にかけてはロープが張られたお花畑の遊歩道が整備されている
ニリンソウおめもじ~
ニリンソウ(二輪草)キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。春山を代表する花のひとつ。
でも一輪だけど。。
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ヤマエンゴサク(山延胡索)(ケシ科)
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フデリンドウ、開いていない?
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ヤマネコノメソウ(山猫の目草)(ユキノシタ科)も
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いい景色
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セントウソウ(仙洞草)(セリ科)
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キバナノアマナ(黄花の甘菜)(ユリ科)DSC02146

ツルキジムシロ バラ科
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ヤマエンゴサク、群生
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アマナ(甘菜)(ユリ科)
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ふでりんどう かな
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ニリンソウ、いっぱい
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アマナも
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山頂です
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ヤマトタケルですね
日本書紀に、東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されている
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伊吹山寺山頂本堂
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左に伊吹山之神「白猪」の像
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駐車場が下に~下に~
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降ります
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お店では、ニリンソウの写真を見せて、ヨモギ団子いただきました
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朝ドラでも話題の五平餅
しめは薬草ソフト
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醒ヶ井宿は近江国坂田郡にあった中山道61番目の宿場
歌川広重画
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(宿駅HP)古く醒井は、中山道61番の宿場まちとして栄えました。平成27年4月には「水と暮らし」の遺る地域として「日本遺産」に認定されたこの街は、地蔵川が緩やかに流れ、その源泉にあたる加茂神社の側の居醒の清水は当時も旅人の疲れを癒したことでしょう。初夏から晩夏にかけては、地蔵川の中に梅花藻が白く可憐な花を咲かせ、日差しの強い中でも涼を楽しませてくれます。趣の残る街並みに日本でも指折りの美しい水の流れる醒井でゆっくりとした時間をお過ごしください。
歩きます。
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醒井尋常小学校玄関・旧醒井楼
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明治26年竣工の尋常高等小学校の玄関を当地に移築し保存した旨の解説が書かれています。
玄関に付属している建物も、大正2年に建てられた「醒井楼」という料理旅館だった建物で、昭和27年からは松尾寺政所として活用されてきました。現在は松尾寺の本堂が松尾寺山山麓に再建され、養鱒場の近くに移転した醒井楼とともに観光名所になっています。
明治期の小学校の玄関が近代和風建築の大正期の料理旅館と合体し、ひとつの建物として違和感なく調和しています
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旧醒井郵便局 
建物の創建は大正4年(1915年)で、ヴォーリズが設計に携わった擬洋風建築。 昭和48年まで醒井郵便局として使用されていましたが、今は醒井宿の歴史を紹介する資料館として守られています。 (国の登録文化財)・・残念、本日休館
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水がきれい
地蔵川 年間を通して14℃前後の水温を保つ水の中には絶滅を危惧されるハリヨという5cmくらいの魚が生息しています。地蔵川は生活用水として昔から利用され、今でもヤカンやスイカが冷やされる風景が見られます。
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旧米原町時代のマンホール 旧町章の中に町の花(サツキ)とその周囲に町の木(イチョウ)を配した定番のデザイン。
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了徳寺のオハツキイチョウ
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了徳寺の境内に、周囲の家並みを圧して、ひときわ高くそびえるオハツキイチョウは、幹囲約2.5m、高さ約20m、樹齢約200年。オハツキイチョウは、他のイチョウに比べて葉柄がやや細長く、葉の縁に種子を付けるのが特徴です。毎年8月から11月上旬頃に数多くの実を付けますが、その一部は、葉の面になります。発育は不完全な物が多く、小型で楕円形、普通のものと著しく異なっています。数は多いもので5個、おおむね1、2個で、葉脈が次第に太くなり、先端のところに形作られます。これは、化石から出土するイチョウとよく似ており、先祖返りと考えられます。昔から「花も咲かずに実のなる木」と、付近の人に不思議がられていますが、花が枝や葉の一部だという学説を裏付けるものです。イチョウは、全国の神社や仏閣に植えられ、一般に親しみ深いものですが、この種のものは珍しく、昭和4年(1929)に国の天然記念物になっています。
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初夏には、梅花藻が見られるという。キンポウゲ科の淡水植物で、川の中から顔を出すように梅に似た小さな花を咲かせる。例年の見頃は5月中旬から8月下旬までで、サルスベリの咲く頃には水面に浮かぶ白とピンクのコントラストに魅かれます。

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醒ヶ井宿明治天皇御駐畢所 江龍家 土地の旧家江龍氏宅で、奥の八畳と次の間が明治天皇御駐畢時の休憩所。明治天皇はかなり行動的なお方だったのか、旧街道はもちろん全国各地に現在も御駐輦所跡が残っているそうです。
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醒井問屋場 問屋場(といやば)とは江戸時代、街道の宿駅で、宿場を通行する大名や役人に人足や馬の提供、荷物の積替えの引継ぎ事務を行なっていたところをいいます。完全な形で残っているものは全国的にも珍しく、貴重な建物とされています。
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資料館、残念、本日休館
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本陣跡に建てられた日本料理店「本陣樋口山」
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趣のある宿場です。水がきれいって素敵です
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醒井延命地蔵 大干ばつの時、最澄が醒井で地蔵菩薩を彫刻して降雨を祈願し、大雨が3日間降り続いたと伝えられています。醒井延命地蔵は御丈1丈2尺の花崗岩による丸彫りの座像で、初めは水中に安置されていたので、尻冷やし地蔵と呼ばれていました。また、魚を供養するために祀られたともいわれています。
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雨森芳州 江戸時代の儒学者・教育者・外交家。二十六才のとき木下順庵の
推挙により対馬へ渡る。以来、朝鮮・中国との外交に尽くし、特に朝鮮通信使との
折捗・応接に貢献する。その善隣友好互恵対等の外交姿勢は、現在も高く評価
されている。八十才で一万首の歌を詠む決意をした芳州は、古今和歌集を千回
も復読したという。この歌も、その中の一首である。 
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鮫島中将直筆の歌碑 明治28年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、一枚の紙に
  ’’あらばいま捧げまほしく醒井のうまし真清水ひとしずくだに’’
と詠んで親王にお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。
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居醒の清水
景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。
そこで天皇は日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて
大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を
苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされ
ますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。
それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。   米原町
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醒井の町並みに沿って流れる地蔵川の最上流部には、加茂神社が鎮座する。「居醒の清水」は、加茂神社のたもとの石組みの下からこんこんと湧き出ている。「居醒の清水」と記された高札の下を見れば、透き通って見るからに冷たそうな水が勢いよく噴き出ているのがわかる。石灰岩質の霊仙山に浸み込んだ水が長い時間をかけて湧き出てくる「居醒の清水」は、1日およそ1.5万トンの湧出量を誇り、年間を通じて12.3~15度と夏は冷たく、冬は温かい。 滋賀県HP
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ここに建っている神社は入口に石造の明神鳥居を構え、その社票には「別雷皇宮」の文字が刻まれている。
すぐ脇を高速道路が走り、一間社流造の本殿が高い斜面に建つ。
扉には二葉葵の紋が刻まれている。
この二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきたもので、別名カモアオイともいわれている。DSC02258
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「居醒の清水」の周囲にはいくつもの湧き水の湧出口があり、清らかな水をたたえた湧水池になっている。日本武尊が伊吹山征伐の後に腰をかけて休んだとされる「腰掛石」とその際に馬の鞍を掛けたとされる「鞍掛石」は、この湧水池のなかにある。「居醒の清水」は、古くから知られる醒井の名跡「三水四石」のひとつ。「三水四石」とは、「居醒の清水」、「十王水」、「西行水」の醒井三水と、湧水池にある「蟹石」、「腰掛石」、「鞍掛石」といまは草木に埋もれているという「影向石」の四石のことを指す。「十王水」は平安時代の天台宗の高僧、浄蔵法師が開いたとされる泉。湧水池から地蔵川が流れ出してしばらくのところにある。「西行水」は地蔵川から醒井の町の一歩裏手に入ったところにある。
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ユキノシタ、咲きますね
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東京のお姉さんは、中山道を歩いているという。いつか、ここも歩くかな。
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喜多院空晴僧都の弟子仲算により、水源がひらかれたといわれています。
東国への旅の途中に西行法師が、ここにあった茶店に立ち寄ってお茶を飲み、(法師が茶店を立ち去った後)法師が飲み残たお茶の泡を飲んだ茶店の娘が不思議なことに懐妊し、男の子を出産。帰路にこの話を聞いた西行が「もしわが子なら元の泡に返れ」と念じると、子はたちまち消えて元の泡になった。これを見た西行法師はここに五輪塔を建て、「泡子墓 一煎一服一期終 即今端的雲脚泡」と記したそうです。「泡子塚」の名で親しまれています
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ツツジが眩しい
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伊吹山もよかったですが、ここ醒ヶ井宿は水の流れが澄んでいて心洗われるところでした