2017年10月31日(火)  晴れ 19℃

秋晴れの気持ち良い一日、奈良を歩きました。
興福寺で、『国宝特別公開2017 阿修羅-天平乾漆群像展』を見て、
その後、東大寺、般若寺と回りました。
興福寺では、国宝館耐震工事に伴い、通常非公開の仮講堂にて阿修羅像〈国宝〉をはじめ八部衆立像〈国宝〉など国宝館の主要な国宝が公開されています。
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仮講堂で、奈良時代に建立されたが焼失した西金堂内陣を再現する
「阿修羅-天平乾漆群像展」が、開催され国宝・阿修羅像など26体展示されている。

奈良駅到着 いつも、行基菩薩が出迎えてくれます。
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奈良市のマンホール 中央に奈良市章、鹿と市の花、「ナラノヤエザクラ」のデザイン 市章は、ナラノヤエザクラをかたどり、花芯に奈の字を描く
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駅近く、興福寺到着
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さっそく、特別公開の仮講堂へ
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この仮講堂は、奈良・薬師寺の旧金堂を、入母屋造から寄棟造にし、向拝を撤去するなどの大改造により外観を変えて移築したもの
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鹿さんもお出迎え

内部は撮影禁止である
目玉はやはり阿修羅像か

元々安置されていた西金堂は、興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明皇后が、亡母橘三千代の冥福を願って、天平6年(734)に建立したもの。平安時代に2回、鎌倉時代に1回被災し、その都度再建されたが、江戸時代の被災後は、資金難のために再建がかなわず、基壇を残すに過ぎない。幸いなことに創建時の阿修羅像など八部衆像や十大弟子像、また法具である華原磬などが伝えられる。
この阿修羅像には、光明皇后が幼くして無くした息子基王、亡き息子の面影、願ってやまなかった成長を仏像に託したのであろうか。
**11/8のテレビ、「尾上松也の謎解き歴史ミステリー」でも取り上げられていました。
  なぜ、阿修羅像が優しい表情なのか、、、(通常、阿修羅は憤怒の顔をしているが)
   ①阿修羅が悪い神から改心した表情 
   ②自らの一族が招いた悲劇(長屋王の変→藤原4兄弟の死)を悔いた気持ちを重ね合わせたのか
私が最近読だ、葉室鱗の「緋の天空」では、光明皇后は幼馴染である長屋王の息子の膳夫を阿修羅像に重ねていた。

続いて、東金堂へ
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東金堂は、神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建。治承4年(1180年)の兵火による焼失した。文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。
今回、謳っているのは、
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国宝館が工事中のため、本来は国宝館にある銅像仏頭(国宝)が、
東金堂に還座、600年ぶりの日光・月光との再会
上でも書いたが、源平の戦いで、創建時の薬師三尊像は焼失
興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた
しかし、室町時代再び火災に遭い、頭部だけがかろうじて焼け残った。(この火災により、右耳付近が大きく変形している)。この頭部は新しく作った本尊像の台座内に納められて長らく人目にふれず、昭和12年に再発見された。
今の東金堂の薬師三尊像は、日光・月光は山田寺からのもので、薬師如来は室町時代のもの。
そこに、今年の一年間だけ、仏頭が東金堂に還ってきたのである
もちろん、日光・月光の間ではなく、脇に置かれていたが
飛鳥山田寺からやってきたこの薬師三尊像は685年に開眼供養した白鳳文化を代表する作品である。
この話をお寺の方にわかり易く説明してもらい、なんかジーンときました

興福寺境内を歩きます

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五重塔(国宝) 天平2年(730)、光明皇后の発願で創建された。現存の塔は応永33年(1426)頃の再建である。高さ50.1メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い。
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中金堂は再建工事中
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興福寺には、金堂が3棟(西、東、中)、その中心となる金堂が中金堂。
和銅3年(710)、藤原不比等の創建。堂内には本尊釈迦丈六仏像、脇侍菩薩4躰(十一面観音二躰と薬王、薬上菩薩)、四天王像、さらに2組の弥勒浄土像が安置。この弥勒像のうち古い像は、興福寺創建者藤原不比等の妻橘三千代が、不比等の一周忌にあたる養老5年(721)に造像したと記している。
中金堂は平安時代以降、7回もの焼失、再建を繰り返している。幕末の再建から老朽化を経て平成12年に解体再建されることに。落慶は平成30年(2018)の予定
・・・このように火災が興福寺では非常に多かったのです
先ほどのお寺の方の話では、
昔は避雷針など無かったので、五重塔に落雷、各伽藍は回廊でつながっているので延焼、また、高台にあるので風も強く、火の回りが早かった・・・火災の条件がそろい過ぎです

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このお寺の歴史は、一言では語りつくせない 以下wikiより抜粋
藤原氏の氏寺として、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
たびたびの火災にもあったが、その都度再建。江戸時代は2万1,000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、慶応4年(1868)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、所謂「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時の名残である。

南円堂(重文) 弘仁4年(813年)、藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した八角堂。
 現在の建物は寛政元年(1789年)の再建。西国三十三所観音霊場の第九番札所。
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右近の橘、左近の藤
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堂の前に生える 「南円堂藤」 は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。
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八角形ですね、近くには猿沢の池


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三重塔(国宝) 康治2年(1143)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建された。治承4年(1180)の大火による焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられる。北円堂とともに興福寺最古の建物で、高さ19.1m、初層は方三間で4.8m、本瓦葺き。
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摩利支天石(宝蔵院胤栄守り本尊)
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宝蔵院流槍術の祖・宝蔵院覚禅房胤栄が猿沢の池に映る三日月を突いて鎌槍の操法を発明したことは有名ですが、自身が宝蔵院の庭の大石に摩利支天をまつり、武道の上達と槍術成就を祈念し稽古をしたことはあまり知られていません。摩利支天とは梵語Marici(陽炎・かげろう)を神格化した女神で護身・勝利などを司り、日本では古来より武士の守護神として尊崇されていました。
宝蔵院は興福寺の子院で現在の国立奈良博物館の位置に江戸時代末までありました。しかし明治初年、時の大寺であった興福寺も廃仏毀釈の嵐に遭遇し、さらに上知令により上屋は取り壊され敷地は国に没収されてしまいました。そして摩利支天石は廃墟と化した宝蔵院跡地にまつる人もなく、取り残されていました。
 この話しを聞いた奈良市高畑菩提町・石崎直司氏の曾祖父で漢方医であった勝蔵氏は、残念に思い自宅に移して供養し、且つ医業の守り神にさせていただきたいと発願されたのです。
 なにしろ、動かせば祟るとまで言い伝えられていた大石ことです。大切にご供養したのち台座に乗せ、十数人の作業員がろくろを回して太いロープを引き「まいた、まいた」の掛け声と共に、数日を掛けて500メートルの道のりをようやく石崎家庭園にまで移動させたのでした。この大事業に当時の奈良町の人々は大勢見物に集まり、屋台がたつほどの賑わいだったといいます。明治20(1887)年のことでした。お庭に鎮座された摩利支天石は「お石さん」とお呼びし、石崎家によって112年の間、大切にお祭りされてまいりました。こうしてお守りされてきた摩利支天石ではありましたが、ご寄贈の打診をいたしましたところ石崎様にも了解をいただきました。そして宝蔵院ご縁の興福寺様も快くお引き受けいただき、移転先を南円堂南西・三重塔前と定めて下さいました。
 いよいよ平成11(1999)年5月31日の早朝、多川俊映興福寺貫首様のご供養の後、クレーン車、トラックなど重機の助けを借り、径2メートル余、重量7トンのお石さまの遷座となりました。こうして無事、その日の午前中に興福寺三重塔前に摩利支天石は鎮座いただくこととなった次第です。
 いま拝見いたしますと収まるべきところに収まり、まるで400年も前からここにあるかの如くの存在感ある風格を漂わせ、全く周りの風景にとけ込んでいるようです。お石さまご自身もお喜び下さっていることと拝察いたしております。
また、鍵田忠兵衛宝蔵院流高田派槍術第二十世宗家に石名の揮毫をお願いし、標石として建てさせていただきました。今後は武道の守護神としてお祭りを絶やさず、また奈良の観光の新しい名所として大切に守り伝えてまいりたいと存じます。  (宝蔵院流槍術のHPより)

大きな木、興福寺の歴史を思います
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北円堂が見えます
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日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明太上天皇と元正天皇が創建。現在の建物は承元2年(1208)頃の再建で、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物になる。毎年春と秋に開扉されているが、今年は内部の仏像が運慶作ということで東京国博に御出陣中
運慶展(東京国立博物館)ポスター
北円堂の無著像は運慶展のポスターにも使用されていて、運慶展の展示作品の目玉になっています
興福寺よ、ありがとう、楽しかったよ~
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奈良国博では正倉院展が開催中 すごい人
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美味しいランチで腹越しらえ
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東大寺 南大門
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金剛力士立像 通称仁王像 国宝
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魅力は何と言っても、数多の金剛力士像の中でも群を抜く迫力と、力感あふれる造形美です。「お寺を仏敵から守る」という役割を持ち、迫真性ありますね。
運慶一派によるもの。
南都焼き討ち後に重源が東大寺再建に尽力しました。
仏教が再び力を取り戻し、誰もが一目で仏の力を信じられる過剰なまでの力強さを持った仏像を生み出した。。。。。NHK『趣味どきっ!国宝に会いに行く』参考

今回は、東大寺ミュージアムに
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東大寺に伝わるお宝をじっくり見させていただきました

大仏殿は最近行ったし、どうしようかな、と思って地図を見ていると、近くに般若寺が
(相変わらずの行き当たりばったり
境内を抜け、
転害門 国宝
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境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。鎌倉時代の修理で改変されているが、基本的には奈良時代の建物である。
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門を出て、北の方向、結構急坂(奈良坂)
途中に奈良少年刑務所 
奈良監獄と呼ばれていたそんな刑務所が2017年3月、閉鎖され今後はホテルなどに活用されることが決まっており、2020年度の開業を目標としているようだ。
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般若寺到着
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コスモス寺か 盛りは過ぎたが、まだ咲いている
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般若寺の創建については、はっきりとしたことはわからないが、
奈良時代天平18年(735)聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため紺紙金泥の『大般若経』六百巻を地中に納め、卒塔婆をはじめ伽藍を整え勅願寺としそのとき経題に因み「般若寺」と命名したという。
平安時代には、長らく繁栄を誇った。が、平安末期の治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによりこの地は合戦場となり、伽藍は焼亡。鎌倉時代廃寺同然となっていたが再興が進められた。寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、建長5年(1253年)頃までに完成した。
その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、日本仏教における戒律の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267年)に開眼供養が行われた。その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失した。
明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住の時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。

十三重石塔-高さ12.6メートル。建長5年(1253)頃に南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)により建立された、日本の代表的な石塔の一つ。楼門を入って正面、本堂から見ても南正面に位置し、当寺の信仰の中心となっている。
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四方仏は薬師(東)、阿弥陀(西)、釈迦(南)、弥勒(北)の顕教四仏が線図で描かれている。
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また、境内に立つ伊行末の嫡男 伊行吉(いのゆきよし)が建立した二基の笠塔婆の銘文により、
般若寺大石塔(十三重石塔)は、伊行末一派の造立になると認められている。
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経蔵(重要文化財)  様式上、鎌倉再興期の建立とみられる、切妻造の小規模な建物。
解体修理の結果、建立当初は経蔵ではなく、土間床の建物であったことが判明している。
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藤原頼長供養塔
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大河『清盛』では、山本耕史さんが悪左府頼長を怪演されていましたね。
保元の乱で敗走した頼長は、奈良で落命。そして遺骸は般若寺の近く「般若山」(または「般若野」と呼ばれる)の辺、興福寺の僧墓に埋葬されました。ところが勝ちを得た後白河方の近臣、藤原信西の命により遺骸の実検のため墓を暴かれました。実検使は頼長の死を確認して遺骸を放置して帰ったと記録されます。以後反乱の首謀者との扱いを受けたので公然と墓を作ることはなかったそうです。いま当寺には境内に残っていた古い五輪塔を「頼長卿供養塔」としておまつりしています。(般若寺HP)

鎮守社  伊勢神宮、春日大社、八幡宮の神を合祀している。神仏分離令以後も境内に残った
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朽ち果てつつある
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三十三所観音石像
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鎌倉時代の伽藍図 当時は繁栄していたのだろうな
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今回の目玉 秘仏特別開帳
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昭和39年に十三重層塔(重文)の大修理で見つかった阿弥陀如来立像(金銅製・重文)と、同立像の台座部に納められていた胎内仏三尊(重文)などが公開されている。
阿弥陀如来立像は、聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のために奉納したと箱書きに記されている。
阿弥陀如来 重文 白鳳時代 像高 40.9cm 金堂製金渡金
般若寺秘仏阿弥陀1
白鳳時代 小金堂仏は親族の追善の為に造立され一族の安泰を祈って女性によって供養されたという。
聖武天皇の曾祖母にあたる持統天皇の念持仏とも考えれる。

胎内仏三尊 重文 平安時代
阿弥陀仏の台座部に和紙に包んで納入されていた
般若寺 胎内仏
他にも、下の絵のように貴重なものが十三重の石塔から発見されました。

この秘仏開帳では、他にも嵯峨天皇の勅額や神功皇后絵馬など興味深いものが展示されていました。

鐘楼 元禄期
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ん、これは?
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後醍醐天皇の皇子として建武中興に活躍された大塔宮護良親王は、吉野へ逃れる際に、一時、この般若寺のに身を潜め難を免れたと伝わっています。
護良親王については、今年3月鎌倉を訪れた際、親王ゆかりの地を訪れ、親王について詳しく書いている。
http://wanchan.blog.jp/archives/2350014.html
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そして、一番最近読んだ本『道誉と正成』安部龍太郎
忠義を貫き、理想の世を追求する細面の秀才・楠木正成、そして、元祖アウトローとも呼ぶべき、豪胆で派手好みの佐々木道誉。選んだ道は違えど、稀代の武勇であった二人。この2人、対照的なようでいて、実はとっても意外な共通点と厚い友情で結ばれていたという話なのですがこの二人の中心にいたのが容貌も気質も神のごとく美しい大塔宮だったのです。
読み進むうちにとっても切なくなっていく本でした

平重衡供養塔  重衡は清盛の五男、南都焼き討ちを行ったとして焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、南都へ引き渡され、重衡は木津川畔にて斬首され、般若寺門前で梟首されたという
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楼門(国宝) 
入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)。民家の建ち並ぶ京街道に面し、西を正面として建つ。鎌倉時代(13世紀後半)建立。下層は1間、上層は3間とする。

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最近まで、この楼門から寺に入れたようだが、駐車場が完成したことにより、東側から入山となった
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寺の外に出て、楼門から十三重の石塔を臨む
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本堂(奈良県指定文化財)-入母屋造、本瓦葺き棟木に寛文7年(1667年)上棟の銘がある。
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主尊 木造文殊菩薩騎獅像(重文)元亨4年(1324年)、慶派仏師・康俊の作。もとは経蔵に安置されていた。般若寺の鎌倉再興期に叡尊が造立した文殊菩薩像が延徳2年(1490年)の火災で焼失したため、代わりに本尊とされたものである。
HPより 般若経を説いた智恵の菩薩。後醍醐天皇の御願仏として願主文観上人、仏師康俊・康成、施主藤原(伊賀)兼光らによって造顕される。もと経堂の秘仏であったが、現本堂再建と同時に御開帳された

他にも四天王像、不動明王像などが安置されていました。
そして、そして、護良親王が身を潜め難を免れたと伝わる唐櫃も。
唐櫃は、鎌倉時代の大般若経の経箱だそうで、そのお話が記された大正7年の「尋常小学校読本」のコピーがあり、一部30円で購入。


寺を出て奈良坂を下ると
夕日地蔵 像高188cm、蓮華座を含めると240cmという大きな地蔵。室町時代後期(1509年)に、興福寺の僧・浄胤が死後の冥福を祈って造立したもの

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歌人・会津八一の歌が有名。
ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり
(奈良坂の 石の仏の頤に 小雨流るる 春は来にけり)

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もう少し降りると、北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)
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鎌倉時代(1243年)、ハンセン病などの不治難病の患者を救済するため、西大寺の僧・忍性によって建てられた福祉施設。般若寺の北東にあったが、1567年に東大寺・大仏殿まで焼いた戦火に巻き込まれ焼失。寛文年間(1661~1672年)に現在地に移り、1693年に修復された。東西約37m、内部は18室に区切られていて、仏間も設けられている。衣食住を提供してきた収容者の数は、のべ1万8千人といわれている。第二次世界大戦後の一時期、大阪空襲の被災者や大陸からの引き揚げ者が住んだこともある。
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再び、東大寺方面へ
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二月堂 旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物。本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏。建物は2005年12月、国宝に指定された。
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三昧堂(四月堂)(重文)  延宝9年(1681年)の建立。寄棟造二重、本瓦葺き。本尊十一面観音立像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。旧本尊の千手観音立像(重文)は東大寺ミュージアムに移座。

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法華堂(三月堂) 東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。

もとは寄棟造りの正堂と礼堂が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建築だが、礼堂は大仏様の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。

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拝観は次回に
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法華堂経庫(重要文化財) - 法華堂の南方に建つ校倉造倉庫。平安時代初期。
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御髪塔は十三重石塔で、聖武天皇が大仏殿で受戒した際の髪を埋めた所とか。
また、東大寺の鐘楼の鐘を吊るすのに使われた女性の髪を埋めた所とも。
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手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
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天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡ともいわれる。

創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。

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八幡神と鳩 八幡神は、皇室の祖先である誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とし、誉田別命が国内を平定するときに、水先案内人となったのが鳩であったとされ、以来、鳩は八幡神の使いであるとされるようになった。八幡宮には鳩の彫刻がいたるところに見られる。ここでは灯篭に。
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紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。
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修学旅行生も大勢
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暗くなってきたしそろそろ帰路に着くことにしよう
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大仏殿前の鏡池
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次回はもう少し勉強して東大寺を訪れましょう、広い広い

興福寺、東大寺、般若寺と奈良を堪能させていただきました
天気も良く、心が澄んでいく一日でした、ありがとうございました