2017年10月30日(月)  晴れ14℃

2週続けて台風が週末にやってきて、今日は天気回復
でも、北風強く、気温も上がらず、木枯らし一号が吹きました
これぞ、歩き日和

自宅からも近い西国街道沿いの、郡山宿本陣が秋の特別公開をしているので訪問することにしました。
(何回も訪問しているのですが、やはり行きたくなる。。。)
DSC09594

合わせて、近隣の史跡、神社などを訪れました。

自宅近くには、西国街道が通っています。箕面市

DSC09538
DSC09539

楠水竜王と道標 
楠木正成が延元元年(1336)、湊川に馳せ向かう途中、ここにあつた小庵の井戸で水を汲んで飲んだと云う伝承があり、後にここに茶店が出来て旅人が名水として愛飲したと云う。井戸は民家の庭の中にある。楠水竜王の額が懸けられた小堂があり、堂の前に享和2年(1802)「京ふしみ道」と記した道標がある。 小野原村の東の常夜灯もある。

DSC09540
DSC09541
DSC09542
DSC09543

須賀神社跡 春日神社の御旅所
ここにあった須賀神社は、明治末頃の神社統合にあたつて、小野原村内の他の神社と同様に春日神社に統合され、いまその跡地は春日神社の御旅所となっている。境内には春日神社の神輿を置く神輿台がある。須賀神社とは祇園の神で防疫神の牛頭天王を祀る社の称である。
DSC09544
DSC09545
DSC09546
DSC09547


DSC09548

旧街道を思わせる古い蔵もあるが、この辺りにはあまり面影もなく
DSC09549
DSC09550

いつの間にか茨木市に入っている。
茨木のマンホール 中央の市章の回りに、市の花・バラと市の木・樫のデザイン。
市章の由来は「茨」の字を図案化したもので、又、それは中央に平和の象徴である鳩を表している。
DSC09551
 
モノレール彩都線をくぐります。近くに豊川駅。
DSC09552
DSC09553
DSC09554

DSC09555

茨木市の案内板
DSC09556
DSC09557

いい景色ですね
DSC09558
DSC09559

箕川と勝尾寺川の合流点 この後、茨木川に流れ込む
DSC09560
DSC09561

道標 
南面に     豊川学校 勝尾寺        
      是ヨリ            道
           粟生 宿久庄 清水
DSC09563

豊川の春日神社 茨木市内に9つある春日神社の中でもっとも広い社域と境内を持つ
DSC09564
DSC09565
DSC09566
DSC09567
川の向こうに境内
DSC09568
DSC09569
DSC09570
台風で荒れている
DSC09571
DSC09572
DSC09573
DSC09574
広すぎて人気もなく、ちょっと恐い境内だが、紅葉はきれいなのかな
DSC09575
DSC09576
DSC09577

火の見櫓(ひのみやぐら) 今では珍しいかな
DSC09578

再び勝尾寺川、蛇行している
DSC09579
DSC09580
DSC09581
この辺りには鍛冶屋がたくさん住んでいたと、聞いたような
DSC09582

この会場には道標がたくさん集められている
DSC09583
右かつをじ
DSC09584
上部が欠損しており、「・・じ寺/大坂道」、総持寺かな
DSC09585
「すぐかちをじ道」
DSC09587

旧家です 虫籠窓が丸い
DSC09588
DSC09589
DSC09590


到着しました、郡山宿本陣
DSC09591
DSC09592
DSC09593
DSC09594

郡山宿本陣は、西国街道の5つの宿場のまん中にあり、江戸時代には大名が参勤交代の際に利用していました。また五色の花を咲かせる椿が御成門の側にあった事から、「椿の本陣」として親しまれています。郡山宿本陣には、「忠臣蔵」の元となった、浅野内匠頭が江戸城刃傷事件をおこす前年の、元禄13年(1700年)5月に宿泊した記録や、これに関連して浅野家断絶申し渡しのため赤穂へ赴いた脇坂淡路守も宿泊したという記録が残されています。(茨木市HP)
昔の街道には大名とか、地位の高い人の宿泊する本陣が設けられていた。西国街道にも芥川、郡山など5ヶ所に本陣があったが、現在、その面影が残っているのがこの「郡山宿本陣」だけらしい。
この「郡山宿本陣」ができたのは寛永12年(1635年)であり、明治はじめの廃藩まで約240年余続いていたとされている。
当初の建物は享保3年(1718年)に焼失したようで、現存の建物は享保6年(1721年)に再建されたものであるという。


 

御成門  今まで何度か来たが、ここから入ったかな  梶家は九曜紋か
DSC09595
DSC09596


2代目だが、玄関わきの椿がきれいなことでも有名→椿本陣との名も
DSC09597
DSC09598
DSC09599

裏の方からが順路のようで
DSC09600
DSC09601
DSC09602
DSC09603

西国街道は、五街道でなく、脇往還(わきおうかん)、脇街道である。
大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。

関札がたくさん  。関札は、参勤交代などで諸大名が宿場に泊まる時に、前もって本陣に掲げることで他の一行との間違いを避けるために、諸大名が製作したもの。泊まる都度に新調したため、掲げられた関札は旧本陣の家で保存されており、玄関や床の間などに並べて供物をささげるなど、大切に保存していました。
DSC09604

DSC09605
DSC09606
DSC09607
DSC09608
DSC09609
DSC09610
DSC09612
DSC09611
DSC09614

納屋にもいろいろな展示が
DSC09615
DSC09616
DSC09617
DSC09618
DSC09619
DSC09621
DSC09620

高札(こうさつ・たかふだ)も残されている  古代から明治初期まで、法令を板面に記して往来などに掲示、民衆に周知させるもの  これが最もよく用い確立されたのは江戸時代

高札制度の目的としては、

  1. 新しい法令を民衆に公示する。
  2. 民衆に法の趣旨の周知徹底を図る。
  3. 基本法である事を明示する(違反者は「天下の大罪」であるとして、違反者は死罪などの重い刑に処せられることが多かった)。
  4. 民衆の遵法精神の涵養を図る。
  5. 民衆からの告訴(謂わば密告)の奨励(特にキリシタン札(切支丹札)などには高額の賞金が掲げられた)。
  6. 幕府や大名の存在感の誇示。

などが挙げられる。

DSC09622
DSC09623
DSC09624
DSC09625
DSC09626
DSC09627
DSC09628
DSC09629
DSC09631
DSC09632
DSC09633


次の展示は、旅の携帯品
DSC09634
DSC09635


外には茶室も
DSC09637
DSC09638
DSC09639

この蔵は展示室
DSC09640
街道とこの本陣の映像を見て
DSC09642

今回は、藩札がメインテーマ
DSC09643
DSC09644
麻田藩札
DSC09645
DSC09646
三田藩札
DSC09647
DSC09648
他にも
DSC09651
DSC09649
DSC09650
DSC09652


DSC09653
DSC09654

いよいよ、母屋に行きます
DSC09655
本陣当時の遺品が数多く保存されている。
DSC09656
DSC09657
DSC09658
DSC09659
DSC09660
DSC09661

お殿様や貴人の寝所である「上段の間」は一段高くなっており、床下からの危害を防ぐため畳が二重に敷かれていたといわれている。また、「上段の間」には和時計が置かれている。
DSC09662
DSC09663
DSC09664
現在の当主、梶さん自ら、時計を動かして鳴らしてくださった。
95歳とは思われぬおしゃべり、足腰もまだしっかりされている。
でも、喋ると疲れるわ~と言われ、居室に戻られた。
DSC09667

今日は当主梶さん以外にも茨木市の学芸員、ガイドさん、更に広報の方までいらっしゃって、色々おしゃべりができました(^_^)

DSC09668
湯殿 風呂桶他、全部持参です。大変だな~
DSC09669
DSC09670

展示品をもう少し見る
太閤検地のものかな
KIMG4963
わかりにくいが、伊能忠敬が測量の際泊まられた?
KIMG4964
KIMG4965
片桐且元宛の手紙
KIMG4966
KIMG4967
KIMG4968
鉄砲 外からしか見れなかった、確か以前は部屋の中で話を聞いたような
そして、確かNHKの「歴史秘話ヒストリア」で、大坂冬の陣で真田の勝利に貢献した「大狭間筒」
これが、茨木市に在るとテレビで言っていて、その時この椿の本陣が写った
KIMG4969
KIMG4971
KIMG4973
結構長居しました~楽しかった
KIMG4974
KIMG4975

道祖神社(どうそじんじゃ) 旅人の守護神として祀られたものと思われる
御祭神;猿田彦神
KIMG4978
KIMG4977
KIMG4979

本陣に当主の書かれた『ぼろ塚』についての資料があったので寄ってみる
KIMG4981
KIMG4982
KIMG4983
KIMG4985

(茨木市HP)『徒然草』第百十五段に「宿河原といふところにて、・・」で始まるぼろ(虚無僧(こむそう))奇談の話があります。 師の仇討ちをしようと旅をしていたぼろがこの宿河原で敵のぼろと出合い、立ち会った場所です。二人のぼろは未来に遺恨を残こすまじと片方は首をつき、もう片方は腹を刺しぬいて果てたといわれています。こうした命に執着しないぼろの精神を、吉田兼好は、徒然草のなかで語っています。
このエピソードに因み、今回先ほどの本陣では。11月4日に尺八演奏会があるとのこと

清水の春日神社をめざし、北西へ歩いていると、立派なお寺が見えた。寄ってみることに。
KIMG4986
KIMG4987
KIMG4988
大きな銀杏
KIMG4989
KIMG4990
佛光山無量院朝日寺(ちょうにちじ)
KIMG5000
KIMG4991
KIMG4992
浄土宗知恩院派だから、三つ葉葵ね
でも、寺の歴史を読むと。。。
KIMG4993
(茨木観光協会HP) 最初の朝日寺は現在の場所から少し離れた西山字山ノ井という場所に、弘法大師の発起 で真言宗の寺院とし超日寺【ちょうにちじ】が創建されたと口伝で伝わる。 摂津・河内には弘法大師にまつわる伝記が多く残され、箕面にある勝尾寺は超日寺と同 様、空海が開基の真言宗の寺院である。勝尾寺第六世行巡住職は清和天皇(せいわ 第五十六 代天皇 在位 858 年~876 年)の病気平復の加持祈祷を行い、清和天皇から聖人として深い 信任を受けていた共に勝尾寺も寺院として信頼を得ていた。 その勝尾寺には光仁天皇(こうにん 第四十九代天皇 在位770年~781年)の皇子である開 成皇子の墓がある。また、光明院(九十三代後伏見天皇の皇子)の御陵があるなど、勝尾寺は 皇族と関わりのある寺院である。貞観 13 年(871 年)3 月、諸国の名山霊場を巡拝されてい た清和天皇が勝尾寺に行幸された。その際、現在の茨木清水で一段高い丘陵地である山ノ 井に建つ超日寺に、清和天皇が立寄られ一泊された。そして、本尊を拝されたあと茨木の 平地を一望され、東から出でる朝日をご覧になり『超日寺(ちょうにちじ)』を『朝日寺』と改 称された。それが起源となり今も『朝日寺』を【ちょうにちじ】と呼んでいる。 天皇のお越しを村人は欣喜雀躍(きんきじゃくやく こおどりして喜ぶ)し、寺院の前にあった 「山の井」から湧き出る清水に桃の花を植付けて歓待し、観月の宴を催した。天皇は大いに 喜ばれその井戸を「月の清水」と命名された。後々も、この「月の清水」は滾々(こんこん)と水が 湧き出て、この界隈の水田を潤したので村名を「清水」と呼ぶようになった。 鎌倉末期、南北朝の戦乱が勃発、建武 3 年(1336 年)5 月、豊島原の合戦でこの辺一帯は 灰燼(かいじん)に帰し、朝日寺も焼失した。
後年、天正 6 年(1578 年)、然誉岌廊(ねんようぎゅうろう)が発起人となり檀家の募財寄進を得 て、字川原田の現在地に移転再興された。 徳川三代将軍家光(1623~1651 年)の頃、キリシタンの取締まりを徹底にするため、住人 を寺院が監視する檀家制度が定められ、住人は寺院に必ず所属し檀家となることが強制さ れ、宗門人別帳がつくられた。その折、朝日寺は真言宗から浄土宗に改宗して知恩院の末 寺となった。 平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたため、平成17年(2005年)5月、 本堂・庫裏が改築され落慶、法要が行われた。この改築された本堂は、然誉岌廊により天 正 6 年に再建された形状規模を模した建物として再現された。
寺 院 創 建 朝日寺の創建は弘法大師の開基で、超日寺と称され、現在の位置から少し 離れた山麓に建立されたと伝わる。その後、南北朝の戦乱で焼失。天正 6 年 (1578 年)6 月、現在の場所に移転再建された。その後、清和天皇が朝日寺と 改称された。 


勝尾寺の創建については、??となる個所もあるが、なかなか興味深い。
清和天皇が、勝尾寺行幸の際に訪れた話や、「月の清水」の話。
次に訪れる清水の春日神社とこの寺は同じ場所にあったのか。


清水の春日神社に行く前に通ったのが、新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)
KIMG5001 (1)
KIMG5003
KIMG5004
KIMG5005

『延喜式神名帳』に記載される式内社(名神大社)。
茨木市西福井、宿久庄(ここ)、西河原に三社ある。
主祭神 天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ) (ニギハヤヒノミコト)?
相殿神 天照皇御魂大神(あまてらすすめおおかみ) アマテラスの別名
    天津彦瓊瓊杵大神(あまつひこににぎのおおかみ)ニニギ

ニニギとか、難しい神様の話はよくわかりませんが、とてもすごい神社だと思います。
散歩+歴研で3社とも訪れています。詳しくは、先輩Yさんのブログで。
http://blog.livedoor.jp/yayug7/archives/796418.html
http://blog.livedoor.jp/yayug7/archives/663499.html


モノレールをくぐり、北を見ると彩都の町が見える
KIMG5014
KIMG5009
そして、この辺り、9月に散歩した時は、彼岸花がきれいでした
KIMG4858
KIMG4859

清水 春日神社 到着
KIMG5015
天平12年(740年)4月5日、右大臣 中臣清麻呂(鎌足の甥の子)が当地に
籠居(ろうきょ 閉居、謹慎して自宅に閉じこもる)し、その住居附近に祖神を祀り
須久久神社(すくくじんじゃ)を創建。その二座の内の一つ。
共に宿久庄村だったが明暦元年(1655年)に清水村が独立し、春日神社と称した。
平成22年、火災で本殿・拝殿を焼失。平成24年、本殿・拝殿の再建が完成。
祭神 春日大社と同じ神  
 天児屋根命(アマノコヤネ)武甕槌命(タケミカズチ)経津主命(フッツヌシ)比売大神(ヒメガミ) 

月の清水 跡
KIMG5022
KIMG5025
貞観 13 年(871 年)3 月、諸国の名山霊場を巡拝されていた清和天皇が勝尾寺に行幸された際、
現在の茨木清水で一段高い丘陵地である山ノ井に清和天皇が立寄られ一泊された。
天皇のお越しを村人は喜び、「山の井」から湧き出る清水に桃の花を植付けて歓待し、観月の宴を催した。
天皇は大いに喜ばれその井戸を「月の清水」と命名された。
後々も、この「月の清水」は滾々(こんこん)と水が湧き出て、この界隈の水田を潤したので村名を「清水」と呼ぶようになった。 

先ほどの朝日寺の縁起と同じ話です!


台風で荒れていますが、神社、上がります。
KIMG5018
KIMG5019
KIMG5020
KIMG5021

今は箕面市と茨木市に分かれているが、旧豊川村には5つの春日神社がある。
平安時代に、この辺りは藤原摂関家の「垂水東牧(たるみのひがしまき)」と呼ばれた広大な荘園の一部
であった関係で藤原氏の氏神である春日神社が多い。
旧豊川村のうち現箕面市内の小野原、粟生新家、粟生間谷、現茨木市内の清水、豊川にそれぞれ春日神社がある。
今回は、初めに豊川、次に清水を訪れ、最後に小野原の春日神社を訪れました。
KIMG5017
春日大社の神のお使い、鹿が灯篭に

さあ、そろそろ家に戻らなければ
箕面市に戻る 箕面市のマンホール 箕面の滝と、市の木イロハモミジ
KIMG5026

新嘗祭献上米斎田   新嘗祭の皇室に米を献上した田圃の碑 名誉だったんだろうな~
KIMG5027

そして、これは何?
KIMG5030
KIMG5033
調べたり、人に聞いたところによると、これは、ため池の水を抜くための栓のようなもの。漢字では「樋管」と書きます。昔のため池には、竪樋たてひ底樋そこひがあり、ここに水を流すための筆木などを引き上げて、放水をしていました。俗にスッポンユルともいわれ、威勢の良い男の人たちが池に飛び込んで、ユルを抜いていた時代もありました。けれども、現在ではバルブ開閉方式、多くはバルブのハンドルを回して「ゆる抜き」をします。http://www.pref.kagawa.lg.jp/nosonseibi/takarabako/6/

小野原の春日神社です
KIMG5034
KIMG5035
KIMG5036
KIMG5038
台風21号では木が倒れて大変でした(復旧は早かった)
KIMG4959
ここは、ヒメホタルが見れます 5月終わりころかな 横の公園に
KIMG5039
KIMG5041

同じくこの公園に、新田・山田の道標  右しんでん 左やまた
KIMG5043
KIMG5044
小野原は近年開発され、往時の趣をとどめていない。元は二又の道に立っていたという。

そして、この辺りは、私の散歩道だが、秋の景色をちょっと紹介
松出公園には、ナナカマドの木が 台風で倒れてしまいましたが赤い実がたわわに
KIMG4957
ナナカマドは 、夏に白い小さな花が咲くが、「花」より「実」のほうが有名。  
材は固く、竈に七回入れても燃えないで 残ることからこの名前になった。
(7日間、竈で焼いて 炭をつくるから、ともいわれる)。

アロニアが赤い実をつけている
アロニア属(Aronia)は北アメリカ東部原産のバラ科落葉低木で、果樹または観賞用樹木として利用される。英語名はチョークベリー(Chokeberry)。日本にあるカマツカに似ているので、セイヨウカマツカという和名もある。
KIMG5091

こちらはハクサンボク(白山木) ガマズミに似ている
KIMG5093

ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)が紅葉 
 枝分かれする形が 「燈台」に似ていることから 「とうだいつつじ」になり→「どうだんつつじ」に
KIMG5097
ジャノメエリカ(蛇の目エリカ)が咲きだした。
南アフリカ原産の常緑低木。花期は11月〜翌年4月頃で桃〜薄紫色の花を咲かせる。
名前は花の中心の黒い部分(葯)が蛇の目模様に見えることから。
KIMG5098
KIMG5099

コハウチワカエデ(羽団扇楓)
KIMG5095


お疲れ様です、今回はこれで終わりです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました