2017年10月30日(月) 晴れ14℃
2週続けて台風が週末にやってきて、今日は天気回復
でも、北風強く、気温も上がらず、木枯らし一号が吹きました
これぞ、歩き日和
自宅からも近い西国街道沿いの、郡山宿本陣が秋の特別公開をしているので訪問することにしました。
(何回も訪問しているのですが、やはり行きたくなる。。。)
合わせて、近隣の史跡、神社などを訪れました。
自宅近くには、西国街道が通っています。箕面市
楠水竜王と道標
楠木正成が延元元年(1336)、湊川に馳せ向かう途中、ここにあつた小庵の井戸で水を汲んで飲んだと云う伝承があり、後にここに茶店が出来て旅人が名水として愛飲したと云う。井戸は民家の庭の中にある。楠水竜王の額が懸けられた小堂があり、堂の前に享和2年(1802)「京ふしみ道」と記した道標がある。 小野原村の東の常夜灯もある。
須賀神社跡 春日神社の御旅所
ここにあった須賀神社は、明治末頃の神社統合にあたつて、小野原村内の他の神社と同様に春日神社に統合され、いまその跡地は春日神社の御旅所となっている。境内には春日神社の神輿を置く神輿台がある。須賀神社とは祇園の神で防疫神の牛頭天王を祀る社の称である。
旧街道を思わせる古い蔵もあるが、この辺りにはあまり面影もなく
いつの間にか茨木市に入っている。
茨木のマンホール 中央の市章の回りに、市の花・バラと市の木・樫のデザイン。
市章の由来は「茨」の字を図案化したもので、又、それは中央に平和の象徴である鳩を表している。
モノレール彩都線をくぐります。近くに豊川駅。
茨木市の案内板
いい景色ですね
箕川と勝尾寺川の合流点 この後、茨木川に流れ込む
道標 南面に 豊川学校 勝尾寺
是ヨリ 道
粟生 宿久庄 清水
豊川の春日神社 茨木市内に9つある春日神社の中でもっとも広い社域と境内を持つ
川の向こうに境内
台風で荒れている
広すぎて人気もなく、ちょっと恐い境内だが、紅葉はきれいなのかな
火の見櫓(ひのみやぐら) 今では珍しいかな
再び勝尾寺川、蛇行している
この辺りには鍛冶屋がたくさん住んでいたと、聞いたような
この会場には道標がたくさん集められている
右かつをじ
上部が欠損しており、「・・じ寺/大坂道」、総持寺かな
「すぐかちをじ道」
旧家です 虫籠窓が丸い
到着しました、郡山宿本陣
2代目だが、玄関わきの椿がきれいなことでも有名→椿本陣との名も
裏の方からが順路のようで
西国街道は、五街道でなく、脇往還(わきおうかん)、脇街道である。
大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。
関札がたくさん 。関札は、参勤交代などで諸大名が宿場に泊まる時に、前もって本陣に掲げることで他の一行との間違いを避けるために、諸大名が製作したもの。泊まる都度に新調したため、掲げられた関札は旧本陣の家で保存されており、玄関や床の間などに並べて供物をささげるなど、大切に保存していました。
納屋にもいろいろな展示が
高札(こうさつ・たかふだ)も残されている 古代から明治初期まで、法令を板面に記して往来などに掲示、民衆に周知させるもの これが最もよく用い確立されたのは江戸時代
次の展示は、旅の携帯品
外には茶室も
この蔵は展示室
街道とこの本陣の映像を見て
今回は、藩札がメインテーマ
麻田藩札
三田藩札
他にも
いよいよ、母屋に行きます
本陣当時の遺品が数多く保存されている。
お殿様や貴人の寝所である「上段の間」は一段高くなっており、床下からの危害を防ぐため畳が二重に敷かれていたといわれている。また、「上段の間」には和時計が置かれている。
現在の当主、梶さん自ら、時計を動かして鳴らしてくださった。
95歳とは思われぬおしゃべり、足腰もまだしっかりされている。
でも、喋ると疲れるわ~と言われ、居室に戻られた。
今日は当主梶さん以外にも茨木市の学芸員、ガイドさん、更に広報の方までいらっしゃって、色々おしゃべりができました(^_^)
湯殿 風呂桶他、全部持参です。大変だな~
展示品をもう少し見る
太閤検地のものかな
わかりにくいが、伊能忠敬が測量の際泊まられた?
片桐且元宛の手紙
鉄砲 外からしか見れなかった、確か以前は部屋の中で話を聞いたような
そして、確かNHKの「歴史秘話ヒストリア」で、大坂冬の陣で真田の勝利に貢献した「大狭間筒」
これが、茨木市に在るとテレビで言っていて、その時この椿の本陣が写った
結構長居しました~楽しかった
道祖神社(どうそじんじゃ) 旅人の守護神として祀られたものと思われる
御祭神;猿田彦神
本陣に当主の書かれた『ぼろ塚』についての資料があったので寄ってみる
(茨木市HP)『徒然草』第百十五段に「宿河原といふところにて、・・」で始まるぼろ(虚無僧(こむそう))奇談の話があります。 師の仇討ちをしようと旅をしていたぼろがこの宿河原で敵のぼろと出合い、立ち会った場所です。二人のぼろは未来に遺恨を残こすまじと片方は首をつき、もう片方は腹を刺しぬいて果てたといわれています。こうした命に執着しないぼろの精神を、吉田兼好は、徒然草のなかで語っています。
このエピソードに因み、今回先ほどの本陣では。11月4日に尺八演奏会があるとのこと
清水の春日神社をめざし、北西へ歩いていると、立派なお寺が見えた。寄ってみることに。
大きな銀杏
佛光山無量院朝日寺(ちょうにちじ)
浄土宗知恩院派だから、三つ葉葵ね
でも、寺の歴史を読むと。。。
(茨木観光協会HP) 最初の朝日寺は現在の場所から少し離れた西山字山ノ井という場所に、弘法大師の発起 で真言宗の寺院とし超日寺【ちょうにちじ】が創建されたと口伝で伝わる。 摂津・河内には弘法大師にまつわる伝記が多く残され、箕面にある勝尾寺は超日寺と同 様、空海が開基の真言宗の寺院である。勝尾寺第六世行巡住職は清和天皇(せいわ 第五十六 代天皇 在位 858 年~876 年)の病気平復の加持祈祷を行い、清和天皇から聖人として深い 信任を受けていた共に勝尾寺も寺院として信頼を得ていた。 その勝尾寺には光仁天皇(こうにん 第四十九代天皇 在位770年~781年)の皇子である開 成皇子の墓がある。また、光明院(九十三代後伏見天皇の皇子)の御陵があるなど、勝尾寺は 皇族と関わりのある寺院である。貞観 13 年(871 年)3 月、諸国の名山霊場を巡拝されてい た清和天皇が勝尾寺に行幸された。その際、現在の茨木清水で一段高い丘陵地である山ノ 井に建つ超日寺に、清和天皇が立寄られ一泊された。そして、本尊を拝されたあと茨木の 平地を一望され、東から出でる朝日をご覧になり『超日寺(ちょうにちじ)』を『朝日寺』と改 称された。それが起源となり今も『朝日寺』を【ちょうにちじ】と呼んでいる。 天皇のお越しを村人は欣喜雀躍(きんきじゃくやく こおどりして喜ぶ)し、寺院の前にあった 「山の井」から湧き出る清水に桃の花を植付けて歓待し、観月の宴を催した。天皇は大いに 喜ばれその井戸を「月の清水」と命名された。後々も、この「月の清水」は滾々(こんこん)と水が 湧き出て、この界隈の水田を潤したので村名を「清水」と呼ぶようになった。 鎌倉末期、南北朝の戦乱が勃発、建武 3 年(1336 年)5 月、豊島原の合戦でこの辺一帯は 灰燼(かいじん)に帰し、朝日寺も焼失した。
後年、天正 6 年(1578 年)、然誉岌廊(ねんようぎゅうろう)が発起人となり檀家の募財寄進を得 て、字川原田の現在地に移転再興された。 徳川三代将軍家光(1623~1651 年)の頃、キリシタンの取締まりを徹底にするため、住人 を寺院が監視する檀家制度が定められ、住人は寺院に必ず所属し檀家となることが強制さ れ、宗門人別帳がつくられた。その折、朝日寺は真言宗から浄土宗に改宗して知恩院の末 寺となった。 平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたため、平成17年(2005年)5月、 本堂・庫裏が改築され落慶、法要が行われた。この改築された本堂は、然誉岌廊により天 正 6 年に再建された形状規模を模した建物として再現された。
寺 院 創 建 朝日寺の創建は弘法大師の開基で、超日寺と称され、現在の位置から少し 離れた山麓に建立されたと伝わる。その後、南北朝の戦乱で焼失。天正 6 年 (1578 年)6 月、現在の場所に移転再建された。その後、清和天皇が朝日寺と 改称された。
勝尾寺の創建については、??となる個所もあるが、なかなか興味深い。
清和天皇が、勝尾寺行幸の際に訪れた話や、「月の清水」の話。
次に訪れる清水の春日神社とこの寺は同じ場所にあったのか。
清水の春日神社に行く前に通ったのが、新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)
モノレールをくぐり、北を見ると彩都の町が見える
そして、この辺り、9月に散歩した時は、彼岸花がきれいでした
清水 春日神社 到着
先ほどの朝日寺の縁起と同じ話です!
台風で荒れていますが、神社、上がります。
新嘗祭献上米斎田 新嘗祭の皇室に米を献上した田圃の碑 名誉だったんだろうな~
そして、これは何?
調べたり、人に聞いたところによると、これは、ため池の水を抜くための栓のようなもの。漢字では「樋管」と書きます。昔のため池には、竪樋 や底樋 があり、ここに水を流すための筆木などを引き上げて、放水をしていました。俗にスッポンユルともいわれ、威勢の良い男の人たちが池に飛び込んで、ユルを抜いていた時代もありました。けれども、現在ではバルブ開閉方式、多くはバルブのハンドルを回して「ゆる抜き」をします。http://www.pref.kagawa.lg.jp/nosonseibi/takarabako/6/
小野原の春日神社です
台風21号では木が倒れて大変でした(復旧は早かった)
ここは、ヒメホタルが見れます 5月終わりころかな 横の公園に
同じくこの公園に、新田・山田の道標 右しんでん 左やまた
小野原は近年開発され、往時の趣をとどめていない。元は二又の道に立っていたという。
そして、この辺りは、私の散歩道だが、秋の景色をちょっと紹介
松出公園には、ナナカマドの木が 台風で倒れてしまいましたが赤い実がたわわに
ナナカマドは 、夏に白い小さな花が咲くが、「花」より「実」のほうが有名。
材は固く、竈に七回入れても燃えないで 残ることからこの名前になった。
(7日間、竈で焼いて 炭をつくるから、ともいわれる)。
アロニアが赤い実をつけている
アロニア属(Aronia)は北アメリカ東部原産のバラ科の落葉低木で、果樹または観賞用樹木として利用される。英語名はチョークベリー(Chokeberry)。日本にあるカマツカに似ているので、セイヨウカマツカという和名もある。
こちらはハクサンボク(白山木) ガマズミに似ている
ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)が紅葉
枝分かれする形が 「燈台」に似ていることから 「とうだいつつじ」になり→「どうだんつつじ」に
ジャノメエリカ(蛇の目エリカ)が咲きだした。
南アフリカ原産の常緑低木。花期は11月〜翌年4月頃で桃〜薄紫色の花を咲かせる。
名前は花の中心の黒い部分(葯)が蛇の目模様に見えることから。
コハウチワカエデ(羽団扇楓)
お疲れ様です、今回はこれで終わりです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
2週続けて台風が週末にやってきて、今日は天気回復
でも、北風強く、気温も上がらず、木枯らし一号が吹きました
これぞ、歩き日和
自宅からも近い西国街道沿いの、郡山宿本陣が秋の特別公開をしているので訪問することにしました。
(何回も訪問しているのですが、やはり行きたくなる。。。)
合わせて、近隣の史跡、神社などを訪れました。
自宅近くには、西国街道が通っています。箕面市
楠水竜王と道標
楠木正成が延元元年(1336)、湊川に馳せ向かう途中、ここにあつた小庵の井戸で水を汲んで飲んだと云う伝承があり、後にここに茶店が出来て旅人が名水として愛飲したと云う。井戸は民家の庭の中にある。楠水竜王の額が懸けられた小堂があり、堂の前に享和2年(1802)「京ふしみ道」と記した道標がある。 小野原村の東の常夜灯もある。
須賀神社跡 春日神社の御旅所
ここにあった須賀神社は、明治末頃の神社統合にあたつて、小野原村内の他の神社と同様に春日神社に統合され、いまその跡地は春日神社の御旅所となっている。境内には春日神社の神輿を置く神輿台がある。須賀神社とは祇園の神で防疫神の牛頭天王を祀る社の称である。
旧街道を思わせる古い蔵もあるが、この辺りにはあまり面影もなく
いつの間にか茨木市に入っている。
茨木のマンホール 中央の市章の回りに、市の花・バラと市の木・樫のデザイン。
市章の由来は「茨」の字を図案化したもので、又、それは中央に平和の象徴である鳩を表している。
モノレール彩都線をくぐります。近くに豊川駅。
茨木市の案内板
いい景色ですね
箕川と勝尾寺川の合流点 この後、茨木川に流れ込む
道標 南面に 豊川学校 勝尾寺
是ヨリ 道
粟生 宿久庄 清水
豊川の春日神社 茨木市内に9つある春日神社の中でもっとも広い社域と境内を持つ
川の向こうに境内
台風で荒れている
広すぎて人気もなく、ちょっと恐い境内だが、紅葉はきれいなのかな
火の見櫓(ひのみやぐら) 今では珍しいかな
再び勝尾寺川、蛇行している
この辺りには鍛冶屋がたくさん住んでいたと、聞いたような
この会場には道標がたくさん集められている
右かつをじ
上部が欠損しており、「・・じ寺/大坂道」、総持寺かな
「すぐかちをじ道」
旧家です 虫籠窓が丸い
到着しました、郡山宿本陣
郡山宿本陣は、西国街道の5つの宿場のまん中にあり、江戸時代には大名が参勤交代の際に利用していました。また五色の花を咲かせる椿が御成門の側にあった事から、「椿の本陣」として親しまれています。郡山宿本陣には、「忠臣蔵」の元となった、浅野内匠頭が江戸城刃傷事件をおこす前年の、元禄13年(1700年)5月に宿泊した記録や、これに関連して浅野家断絶申し渡しのため赤穂へ赴いた脇坂淡路守も宿泊したという記録が残されています。(茨木市HP)
昔の街道には大名とか、地位の高い人の宿泊する本陣が設けられていた。西国街道にも芥川、郡山など5ヶ所に本陣があったが、現在、その面影が残っているのがこの「郡山宿本陣」だけらしい。
この「郡山宿本陣」ができたのは寛永12年(1635年)であり、明治はじめの廃藩まで約240年余続いていたとされている。
当初の建物は享保3年(1718年)に焼失したようで、現存の建物は享保6年(1721年)に再建されたものであるという。
2代目だが、玄関わきの椿がきれいなことでも有名→椿本陣との名も
裏の方からが順路のようで
西国街道は、五街道でなく、脇往還(わきおうかん)、脇街道である。
大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。
関札がたくさん 。関札は、参勤交代などで諸大名が宿場に泊まる時に、前もって本陣に掲げることで他の一行との間違いを避けるために、諸大名が製作したもの。泊まる都度に新調したため、掲げられた関札は旧本陣の家で保存されており、玄関や床の間などに並べて供物をささげるなど、大切に保存していました。
納屋にもいろいろな展示が
高札(こうさつ・たかふだ)も残されている 古代から明治初期まで、法令を板面に記して往来などに掲示、民衆に周知させるもの これが最もよく用い確立されたのは江戸時代
高札制度の目的としては、
- 新しい法令を民衆に公示する。
- 民衆に法の趣旨の周知徹底を図る。
- 基本法である事を明示する(違反者は「天下の大罪」であるとして、違反者は死罪などの重い刑に処せられることが多かった)。
- 民衆の遵法精神の涵養を図る。
- 民衆からの告訴(謂わば密告)の奨励(特にキリシタン札(切支丹札)などには高額の賞金が掲げられた)。
- 幕府や大名の存在感の誇示。
次の展示は、旅の携帯品
外には茶室も
この蔵は展示室
街道とこの本陣の映像を見て
今回は、藩札がメインテーマ
麻田藩札
三田藩札
他にも
いよいよ、母屋に行きます
本陣当時の遺品が数多く保存されている。
お殿様や貴人の寝所である「上段の間」は一段高くなっており、床下からの危害を防ぐため畳が二重に敷かれていたといわれている。また、「上段の間」には和時計が置かれている。
現在の当主、梶さん自ら、時計を動かして鳴らしてくださった。
95歳とは思われぬおしゃべり、足腰もまだしっかりされている。
でも、喋ると疲れるわ~と言われ、居室に戻られた。
今日は当主梶さん以外にも茨木市の学芸員、ガイドさん、更に広報の方までいらっしゃって、色々おしゃべりができました(^_^)
湯殿 風呂桶他、全部持参です。大変だな~
展示品をもう少し見る
太閤検地のものかな
わかりにくいが、伊能忠敬が測量の際泊まられた?
片桐且元宛の手紙
鉄砲 外からしか見れなかった、確か以前は部屋の中で話を聞いたような
そして、確かNHKの「歴史秘話ヒストリア」で、大坂冬の陣で真田の勝利に貢献した「大狭間筒」
これが、茨木市に在るとテレビで言っていて、その時この椿の本陣が写った
結構長居しました~楽しかった
道祖神社(どうそじんじゃ) 旅人の守護神として祀られたものと思われる
御祭神;猿田彦神
本陣に当主の書かれた『ぼろ塚』についての資料があったので寄ってみる
(茨木市HP)『徒然草』第百十五段に「宿河原といふところにて、・・」で始まるぼろ(虚無僧(こむそう))奇談の話があります。 師の仇討ちをしようと旅をしていたぼろがこの宿河原で敵のぼろと出合い、立ち会った場所です。二人のぼろは未来に遺恨を残こすまじと片方は首をつき、もう片方は腹を刺しぬいて果てたといわれています。こうした命に執着しないぼろの精神を、吉田兼好は、徒然草のなかで語っています。
このエピソードに因み、今回先ほどの本陣では。11月4日に尺八演奏会があるとのこと
清水の春日神社をめざし、北西へ歩いていると、立派なお寺が見えた。寄ってみることに。
大きな銀杏
佛光山無量院朝日寺(ちょうにちじ)
浄土宗知恩院派だから、三つ葉葵ね
でも、寺の歴史を読むと。。。
(茨木観光協会HP) 最初の朝日寺は現在の場所から少し離れた西山字山ノ井という場所に、弘法大師の発起 で真言宗の寺院とし超日寺【ちょうにちじ】が創建されたと口伝で伝わる。 摂津・河内には弘法大師にまつわる伝記が多く残され、箕面にある勝尾寺は超日寺と同 様、空海が開基の真言宗の寺院である。勝尾寺第六世行巡住職は清和天皇(せいわ 第五十六 代天皇 在位 858 年~876 年)の病気平復の加持祈祷を行い、清和天皇から聖人として深い 信任を受けていた共に勝尾寺も寺院として信頼を得ていた。 その勝尾寺には光仁天皇(こうにん 第四十九代天皇 在位770年~781年)の皇子である開 成皇子の墓がある。また、光明院(九十三代後伏見天皇の皇子)の御陵があるなど、勝尾寺は 皇族と関わりのある寺院である。貞観 13 年(871 年)3 月、諸国の名山霊場を巡拝されてい た清和天皇が勝尾寺に行幸された。その際、現在の茨木清水で一段高い丘陵地である山ノ 井に建つ超日寺に、清和天皇が立寄られ一泊された。そして、本尊を拝されたあと茨木の 平地を一望され、東から出でる朝日をご覧になり『超日寺(ちょうにちじ)』を『朝日寺』と改 称された。それが起源となり今も『朝日寺』を【ちょうにちじ】と呼んでいる。 天皇のお越しを村人は欣喜雀躍(きんきじゃくやく こおどりして喜ぶ)し、寺院の前にあった 「山の井」から湧き出る清水に桃の花を植付けて歓待し、観月の宴を催した。天皇は大いに 喜ばれその井戸を「月の清水」と命名された。後々も、この「月の清水」は滾々(こんこん)と水が 湧き出て、この界隈の水田を潤したので村名を「清水」と呼ぶようになった。 鎌倉末期、南北朝の戦乱が勃発、建武 3 年(1336 年)5 月、豊島原の合戦でこの辺一帯は 灰燼(かいじん)に帰し、朝日寺も焼失した。
後年、天正 6 年(1578 年)、然誉岌廊(ねんようぎゅうろう)が発起人となり檀家の募財寄進を得 て、字川原田の現在地に移転再興された。 徳川三代将軍家光(1623~1651 年)の頃、キリシタンの取締まりを徹底にするため、住人 を寺院が監視する檀家制度が定められ、住人は寺院に必ず所属し檀家となることが強制さ れ、宗門人別帳がつくられた。その折、朝日寺は真言宗から浄土宗に改宗して知恩院の末 寺となった。 平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたため、平成17年(2005年)5月、 本堂・庫裏が改築され落慶、法要が行われた。この改築された本堂は、然誉岌廊により天 正 6 年に再建された形状規模を模した建物として再現された。
寺 院 創 建 朝日寺の創建は弘法大師の開基で、超日寺と称され、現在の位置から少し 離れた山麓に建立されたと伝わる。その後、南北朝の戦乱で焼失。天正 6 年 (1578 年)6 月、現在の場所に移転再建された。その後、清和天皇が朝日寺と 改称された。
勝尾寺の創建については、??となる個所もあるが、なかなか興味深い。
清和天皇が、勝尾寺行幸の際に訪れた話や、「月の清水」の話。
次に訪れる清水の春日神社とこの寺は同じ場所にあったのか。
清水の春日神社に行く前に通ったのが、新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)
『延喜式神名帳』に記載される式内社(名神大社)。
茨木市西福井、宿久庄(ここ)、西河原に三社ある。
主祭神 天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ) (ニギハヤヒノミコト)?
相殿神 天照皇御魂大神(あまてらすすめおおかみ) アマテラスの別名
天津彦瓊瓊杵大神(あまつひこににぎのおおかみ)ニニギ
ニニギとか、難しい神様の話はよくわかりませんが、とてもすごい神社だと思います。
散歩+歴研で3社とも訪れています。詳しくは、先輩Yさんのブログで。
http://blog.livedoor.jp/yayug7/archives/796418.html
http://blog.livedoor.jp/yayug7/archives/663499.html
ニニギとか、難しい神様の話はよくわかりませんが、とてもすごい神社だと思います。
散歩+歴研で3社とも訪れています。詳しくは、先輩Yさんのブログで。
http://blog.livedoor.jp/yayug7/archives/796418.html
http://blog.livedoor.jp/yayug7/archives/663499.html
モノレールをくぐり、北を見ると彩都の町が見える
そして、この辺り、9月に散歩した時は、彼岸花がきれいでした
清水 春日神社 到着
天平12年(740年)4月5日、右大臣 中臣清麻呂(鎌足の甥の子)が当地に
籠居(ろうきょ 閉居、謹慎して自宅に閉じこもる)し、その住居附近に祖神を祀り
須久久神社(すくくじんじゃ)を創建。その二座の内の一つ。
共に宿久庄村だったが明暦元年(1655年)に清水村が独立し、春日神社と称した。
平成22年、火災で本殿・拝殿を焼失。平成24年、本殿・拝殿の再建が完成。
貞観 13 年(871 年)3 月、諸国の名山霊場を巡拝されていた清和天皇が勝尾寺に行幸された際、
現在の茨木清水で一段高い丘陵地である山ノ井に清和天皇が立寄られ一泊された。
現在の茨木清水で一段高い丘陵地である山ノ井に清和天皇が立寄られ一泊された。
天皇のお越しを村人は喜び、「山の井」から湧き出る清水に桃の花を植付けて歓待し、観月の宴を催した。
天皇は大いに喜ばれその井戸を「月の清水」と命名された。
後々も、この「月の清水」は滾々(こんこん)と水が湧き出て、この界隈の水田を潤したので村名を「清水」と呼ぶようになった。
先ほどの朝日寺の縁起と同じ話です!
台風で荒れていますが、神社、上がります。
今は箕面市と茨木市に分かれているが、旧豊川村には5つの春日神社がある。
平安時代に、この辺りは藤原摂関家の「垂水東牧(たるみのひがしまき)」と呼ばれた広大な荘園の一部
であった関係で藤原氏の氏神である春日神社が多い。
であった関係で藤原氏の氏神である春日神社が多い。
旧豊川村のうち現箕面市内の小野原、粟生新家、粟生間谷、現茨木市内の清水、豊川にそれぞれ春日神社がある。
今回は、初めに豊川、次に清水を訪れ、最後に小野原の春日神社を訪れました。
今回は、初めに豊川、次に清水を訪れ、最後に小野原の春日神社を訪れました。
新嘗祭献上米斎田 新嘗祭の皇室に米を献上した田圃の碑 名誉だったんだろうな~
そして、これは何?
調べたり、人に聞いたところによると、これは、ため池の水を抜くための栓のようなもの。漢字では「樋管」と書きます。昔のため池には、
小野原の春日神社です
台風21号では木が倒れて大変でした(復旧は早かった)
ここは、ヒメホタルが見れます 5月終わりころかな 横の公園に
同じくこの公園に、新田・山田の道標 右しんでん 左やまた
小野原は近年開発され、往時の趣をとどめていない。元は二又の道に立っていたという。
そして、この辺りは、私の散歩道だが、秋の景色をちょっと紹介
松出公園には、ナナカマドの木が 台風で倒れてしまいましたが赤い実がたわわに
ナナカマドは 、夏に白い小さな花が咲くが、「花」より「実」のほうが有名。
材は固く、竈に七回入れても燃えないで 残ることからこの名前になった。
(7日間、竈で焼いて 炭をつくるから、ともいわれる)。
アロニアが赤い実をつけている
アロニア属(Aronia)は北アメリカ東部原産のバラ科の落葉低木で、果樹または観賞用樹木として利用される。英語名はチョークベリー(Chokeberry)。日本にあるカマツカに似ているので、セイヨウカマツカという和名もある。
こちらはハクサンボク(白山木) ガマズミに似ている
ドウダンツツジ(灯台躑躅、満天星)が紅葉
枝分かれする形が 「燈台」に似ていることから 「とうだいつつじ」になり→「どうだんつつじ」に
ジャノメエリカ(蛇の目エリカ)が咲きだした。
南アフリカ原産の常緑低木。花期は11月〜翌年4月頃で桃〜薄紫色の花を咲かせる。
名前は花の中心の黒い部分(葯)が蛇の目模様に見えることから。
コハウチワカエデ(羽団扇楓)
お疲れ様です、今回はこれで終わりです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
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