山口探訪③より続き

2017年8月9日(水)  30℃

朝、起きた時は土砂降り
どうなるかと思ったが、宿を出るころは曇、まあ、涼しくてよかったかな

まずは、松下村塾に
松下村塾は、松陰神社の中にあります
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この巨大絵馬には、松陰と干支生まれの松下村塾の門下生を描かれています。今年は、「入江九一」さん、「松下村塾四天王」のひとりで、28歳の若さで戦死した、松下村塾の門下生です。

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明治40年(1907)に創建された、吉田松陰を祭神とする神社。
松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、松陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建。1907年(明治40年)、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格。

まず、目に入ったこの石碑
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“明治維新胎動之地”と刻まれており、明治百年を記念 して昭和43年に、当時の総理大臣佐藤栄作氏の筆によるものです。。。初めっからワクワク今年は、明治百五十年
そう、前記事でも書きましたが、ここは世界遺産
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『親思うこころにまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん』
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この歌は、親思いで非常に優しい松陰が
死刑を前にして故郷の両親に送った歌です。

江戸時代の茶室花月楼 安永5年(1776)に7代藩主毛利重就が、江戸千家の元祖川上不白の献上した花月楼の設計図に基づいて三田尻(防府市)の別邸内に建築した茶室である。
御茶道竹田休和が文化2年(1805)に平安古の自邸内に移し、さらに明治21年(1888)に品川弥二郎が松本橋のたもとの自宅内に移した。昭和34年(1959)に現在地に移築、県の有形文化財に指定されている。
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杉家旧宅 松陰の実家ですね  当時よりここに建っていました
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松陰幽囚の旧宅
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(萩市HP)旧宅は国指定の史跡で、木造瓦葺き平屋建て214㎡のかなり大きい建物です。そして幽囚室は東側にある3畳半の一室です。
吉田松陰は、安政元年(1854) 3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。翌年に釈放となりましたが、父杉百合之助預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子や武教全書などを講じました。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。  【国指定史跡】
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昭和天皇が皇太子の頃、萩に来られています

芙蓉かな、綺麗
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松下村塾
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(萩市HP)幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。
天保13年(1842)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、子弟の教育にあたりました。そして安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することになりました。木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。講義室だった8畳の部屋には松陰の石膏像と肖像画、机が置いてあります。
松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名がつけられました。松陰は、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と『松下村塾記』に記し、村名を冠した塾名に誇りと責任を感じ、志ある人材を育てようとしました。 【国指定史跡】
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松陰神社
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吉田家の紋は五瓜の「瓜輪」に「卍」
現社殿は昭和30年(1955)に竣工
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千木外削ぎ 鰹木5本
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写真はないけど、横には、旧社殿を遷した「松門神社」、松陰の門人であった人々の霊を祀っています。

傘みくじ、かわいい 運も開く、夢も開く
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松陰だけに、松の木に
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2009年にできた、松陰神社宝物館「至誠館」松陰先生が安政6年(1859)に、安政の大獄により江戸で 刑死、殉節されてから150年となる平成21年(2009)を迎えることを記念し て建設。遺された著述、物品が多く展示されていました。 脇の池には「温情」の文字が
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なお、松陰神社は東京世田谷にもある。
かつて長州藩別邸があった所で、安政の大獄で刑死した4年後の1863年、高杉晋作ら門人により墓のあった小塚原の回向院から当地に改葬された。1882年(明治15年)墓のそばに松陰を祀る神社が創建された。ともに松陰神社がある縁から、1996年に世田谷区と萩市は友好都市提携を行っているという。

近くの売店では、夏みかんの歴史が
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松陰歴史館や伊藤博文旧宅など、この近くには色々行きたいところがあったのですが、また、次回。。。。

松陰生誕の地が近くにあるというので行ってみることに
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(萩市HP)吉田松陰は、天保元年(1830)に家禄26石 萩藩士 杉百合之助の次男としてこの地で誕生しました。誕生地は萩市内を一望できる「団子岩」とよばれる高台にあり、風光明媚な場所です。
杉家は代々毛利家に仕え、吉田松陰の曽祖父・文左衛門の時代から萩城下川島に住んでいました。しかし、文化・文政の大火に遭い、文化13(1816)年、祖父・七兵衛が萩の東郊松本村に転居。文政8(1825)年、萩城下江向の俳人・八谷聴雨の別荘(樹々亭)を、父・百合之助が買い求め、文政11(1828)年に兄・梅太郎が生まれ、5年後の天保元(1830)年に松陰が誕生。松陰は吉田家を継いだ後も両親とともにこの場所に住み、19歳頃までを過ごしました。嘉永元(1848)年、一家は松本村清水口に移り、現在の松陰神社境内に生活を移しました。
現在、誕生地に現存の建物はありませんが、大正時代に設置した間取りを示す敷石が残っています。誕生之地の石碑の揮毫は、松下村塾の門下生・山県有朋によるもの。
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萩城の指月山が見えます
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すぐ横にお墓も
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(萩市HP)吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っています。松陰の没後100ヵ日にあたる万延元年(1860)2月7日、生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬しました。そして同月15日に松陰の墓碑を建立しました。
表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。
墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人17人と妹たちが名前入りで寄進したものです。当時、松陰は幕府から第一級の大罪人とされており、その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は当時としては勇気のいる行動でした。それだけ松陰が門人たちから慕われていたということが伺えます。
この墓所には、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓もあります。【市指定史跡】KIMG4579DSC_1240
松陰のお墓ですね ボランティアさんがお掃除をされていましたDSC_1235

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こちらは、お父様の杉百合之助のお墓 お母様も
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久坂玄瑞のお墓 京都でなくなっているので遺髪が入っています
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高杉晋作の墓 下関で没したので、こちらにはへその緒と遺髪が入っています
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玉木文之進の墓 松陰の叔父で松下村塾の創立者
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片隅に「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」
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文久3年(1863)4月に晋作は、藩に10年の暇をもらい、この付近の草庵で夫婦で生活を始めます。師匠・松陰の遺稿を読む等して暮らしていましたが、穏やか生活は僅か2ヶ月で終止符をうちます。同年5月に長州藩が関門海峡で外国船を砲撃した下関戦争が勃発し、惨敗した藩は晋作を呼び戻します。その後、晋作により有名な奇兵隊が創設されたのです。

次は、毛利家の菩提寺東光寺に 前日行った大照院が偶数なら、こちらは奇数の歴代藩主が祀られている
(萩市HP
)護国山東光寺は、元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗の寺院で、大照院とならぶ毛利家の菩提寺。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残しています。
本堂裏の毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並ぶ。このほかに、殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などがある。また寺宝類も多く、長州藩御用絵師の雲谷派の絵画、県指定有形文化財の木額、柱聯、榜牌などが所蔵されています。 【 国指定重要文化財(総門・三門・大雄宝殿・鐘楼)】
国指定重要文化財
東光寺総門
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(寺HP)東光寺開山の慧極禅師筆の「護国山」の額が掲げてありますが、「元禄癸酉六年孟春吉日(西暦1693年)」と年期が記されています。三間二戸八脚門、一重切妻造段違本瓦葺きで、棟の端にはシャチ(鯱)の代わりに摩伽羅を飾り、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風の様式です。材料はクサマキ・マツ等の用材の表面全体にベンガラが塗ってあります。
摩伽羅。。同じ黄檗宗の宇治萬福寺でも見たな
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東光寺三門
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この門は東光寺が創建されて121年後の文化9年(1812年)に竣工。藩主毛利斉熙が寄進したもので、「文化八年辛未七月念有八日始斧」・「同九歳次壬申九月十有九日竣工」の棟札があります。
規模は地方寺院のものとしては有数で、桁行十一・六メートル、梁間六・七メートルの三間三戸の二階二重門です。入母屋造り本瓦葺き、棟の両端は鯱付き鬼瓦備え、中央は露盤宝珠備えで、ケヤキの素木造りとなっています。左右に山廊があって、ここから上層部への階段が通じていて、二階には周囲に通し縁があって、内部には十八羅漢等が安置されています。全体の構造形式は純粋な唐様で、組物は上層軒内唐様二手先詰組です。「解脱門」の額は即非禅師、「最勝閣」・「布金祇園」の額は当山十五世大愚衍操禅師によるものです。
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鐘楼

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鐘楼は、黄檗宗特有の一重もこし付きの素木造二層式の建物で、用材はヒバとマツが使われています。屋根は入母屋造りで上層部は本瓦葺き、下層部は桟瓦葺きとなっており、上層には、刎高欄を据えた縁が周囲に廻してあります。主屋組物は絵様刳形付き大斗肘の間斗束構出組納です。上層内部には、毛利家四代藩主・吉広公が当事の藩における鋳物師の名工郡司喜兵衛・源太夫父子に命じて鋳造させ、寄進された大鐘があります。この大鐘の銘は開山の慧極禅師の撰によるもので、それには元禄七年(1694年)五月十五日、すなわち当山開基の毛利家三代藩主吉就公の葬儀が行われた翌日の日付が入っております。このような由緒によって第二次世界大戦中にも供出から除外され、今日まで残り伝えられました。この鐘楼は鐘の完成と同じに建てられたものです。またこの鐘楼の上層には大鐘の外に大太鼓もあり、鼓楼も兼ねています。その大太鼓にも元禄七年四月吉日の墨書銘があります。この鐘楼は、これまで「境内地内の別の土地より移築した」という説が一般的でしたが、実際は現在の場所に鐘鼓楼として建立されていたことが文化財調査(昭和六十三年~平成四年)によって判明しました。
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大雄宝殿(本堂)
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元禄十一年(1698年)十二月に竣工。一重裳階付き、入母屋造、本瓦葺きで、用材はクサマキ。組物は三ツ斗出組構えで、前面一間通りは吹放しになっていて、左右と背面の入側は化粧屋根裏、中央は格子天井組など複雑な建築技術を駆使した唐様式の仏殿。黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼びますが、「お釈迦様のいらっしゃる所」という意味です。現在でも中国・韓国では同じように呼んでいます。堂内は土間叩仕上げで、中国明時代の法要の法式を継承する黄檗宗の読経は現在でも立ったまま行います。
須彌壇上には本尊として、長寿院夫人(開基毛利吉就公夫人)の寄付にかかる釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者の三尊仏を安置しています。「大殿本尊の記」(恵極の文・雪門の筆)には「長寿院大夫人大善心を発して金百両を喜捨して京兆の大仏師法橋藤村忠円に命じて釈迦如来並びに迦葉阿難のニ尊者の立像を製作して住持門公(雪門)をして護国の大殿に安置せしめ」とあります。また、柱は全て方柱で、内部は数多くの聯や額によって荘厳されています。
大雄宝殿前には、行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為に月台という広場が設けられています。その中央の大きな石を梵壇石といい、戒律を破った僧が懺悔のため坐らされたといいます。
同殿は中国風建築物であるため、障子の桟が日本と逆に外側にあります。また、屋根の中央にあげた火焔付き二重宝珠が黄檗風で、正面中央の半扉には桃(中国における魔除けの果物)の画が彫られていて桃戸といいます。
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東光寺大雄宝殿の鬼瓦は、NHKの大河ドラマ「太閤記」放送時のタイトルバックとして登場したものです。鬼瓦は棟を整える目的と魔除けとしての意味をもつといわれているが、この大雄宝殿の屋根には24個もの鬼瓦が各棟に据えられている。昭和42年(1967)の大修理の際に鬼瓦の大部分が修理修復された。大雄宝殿の南東隅棟、二の鬼の位置に据えられた鬼瓦は、現存する創建当時そのままの鬼瓦の中の一つで、元禄時代の文化・技術を知る上で貴重なものといえる。
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毛利家墓所に
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大照院と同じく500基の灯篭 藩主のお墓は板状の形
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ここは黄檗宗の寺、萬福寺でも見た開梛(かいぱん・魚梆(ぎょほう)とも)は、時を報ずるための魚板。近隣の池田仏日寺にもあった。
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そして、萩の夏の風物詩である「萩・万灯会」は、萩藩主毛利家の菩提寺である
大照院東光寺がその舞台となります。毛利氏の菩提を弔うため、毎年8月13日に【迎え火】として大照院で、8月15日に【送り火】として東光寺で、墓所にある500基あまりの石灯籠に火をともします。
(萩市HP)イメージ

ランチに美味な海鮮料理を食べ、午後は明倫館に

市役所です 世界遺産登録で盛り上がっています
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市の木、夏みかん
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明倫館
(めいりんかん)は、長州藩藩校水戸藩弘道館岡山藩閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称された。


(萩市HP)幕末における長州藩の活躍に大きく貢献した藩校旧萩藩校明倫館きゅうはぎはんこうめいりんかん

萩藩校明倫館は、享保3年(1718)に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てた藩校です。それから約130年後、嘉永2年(1849)に城下の中心地(現在地)へと移転、規模を拡大しました。
約1万5千坪(約5万㎡)もの敷地内に、宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、それも漢学中心の初等・高等の教育施設が配置され、東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水練池、北方には約3千坪の練兵場が設けられていました。吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)もここで教鞭をふるいました。
創設より慶応3年(1867)廃館に至るまで、前後約150年の長期にわたって藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の中で大きな役割を果たしました。
敷地内には、旧明倫小学校本館(昭和10年に建てられた木造2階建ての校舎)があり、平成8年に国登録有形文化財に登録されています。
藩校跡に建つ日本最大の木造校舎が、平成29年3月4日 萩・明倫学舎として開館しました!
また、剣槍術場である有備館、水泳や水中騎馬の練習が行われた水練池観徳門などが残っており、自由に見学していただけます。
有備館の内部は公開されており、ボランティアガイドが常駐しています(無料)。

この有備館で、ボランティアガイドさん(女性)にとても詳しい話を聞きました。
前日までの、ガイドさんとはほとんどこの方のこと。
話が面白くて、興味深くて、時間が経つのも忘れるほどでした。
どこから来られたのですか、の質問に「大阪です」と答えると、「まあ、私も以前大阪に住んでいたことがあります。大坂の箕面です」
なんと偶然私も箕面在住思わず、手を取り合っておりました
旅をすると、こんな出会いもあるのですね

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観徳門
【市指定有形文化財】孔子を祀った聖廟の前門KIMG4630

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(萩市HP)有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物です。内部の北側半分は板の間で39畳の剣術場、南側半分は土間で54畳の槍術場、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室があります。有備館は、藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修業者との試合場、すなわち「他国修業者引請剣槍術場」でもありました。土佐の坂本龍馬も来萩しここで試合をしたといわれています。【国指定史跡】
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畳のところで藩主が上覧したといいます
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藩主専用のトイレ、とても壁が厚かった
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明倫学舎本館に
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藩校明倫館跡地に昭和10年10月10日に建てられた木造2階建の小学校舎。東西両端と中央玄関の棟に藩校明倫館の聖廟せいびょうと同じように鴟尾しびが置かれ、外壁は1階部分は簓子下見板張ささらこしたみいたばり、2階部分は白漆喰しっくい塗りである。屋根のフランス瓦や連続する窓の意匠が特徴的で、モダニズムへの萌芽も見られる。改修整備し、平成29年(2017年)3月4日、「萩・明倫学舎」としてオープン。
本館と2号館に分かれており、本館では全体案内(無料)、2号館は有料で平成27年7月に世界遺産に登録された、萩市の5資産を含む「明治日本の産業革命遺産」を紹介する「世界遺産ビジターセンター」と幕末維新期の歴史・科学技術史の貴重な実物資料を展示する「幕末ミュージアム」を開設。
本館の受付で、大政奉還150年記念プロジェクト、スタンプはここでいただきました
ここでのスタンプデザインは、明倫館 3個目ゲット~
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2号館が見所満載とのことで、まず、そちらへ

幕末ミュージアム
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幕末ミュージアムでは、日本でも有数の収集家である小川忠文氏(下関市在住)から萩市に寄贈された幕末維新期の歴史・科学技術史3,000点を超える資料のうち、特に貴重な実物資料を展示します。
これらの資料は、幕末維新動乱期に使用されたゲベール銃・エンフィールド銃などの鉄砲類や武具類などの軍事関係資料、江戸時代に日本で最初に作られた天文成象図(星図)などの天文関係資料、伊能忠敬が使用したものと同形の象限儀などの測量関係資料、エレキテルと称する電気式医療器具などの医学関係資料、江戸時代に作られた国産の顕微鏡などの科学技術関係資料など、その貴重さ、その展示数において日本屈指の、他に類を見ないスケールとなっています。
写真も撮れなかったので、文章ではなかなか。

でもすごい珍しいものばかり、この小川氏とはいったい何者?
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昔の小学校の懐かしさを思い出させる階段
2階の窓からは、南門が見えた
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南門は、新明倫館の正門として建てられた。藩主が聖廟せいびょうを拝する春秋の「釈菜せきさい(孔子祭)」や公式行事以外は開かれなかった。本願寺山口別院に移され正門となっていたが、寄付され平成16年(2004年)に元の位置に移築された。

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懐かしい廊下、世界遺産ビジターセンターへ
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日本で初めて本格的なシリアルノミネーションという手法を用い、2015年世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」。8県11市にわたる23の資産を一つの集合体として見ることにより、「19世紀の世界史の奇跡」と賞賛された日本の急速な近代化の軌跡を理解することができます。
その軌跡の中でも近代化の原点といわれる萩の5資産の位置づけや、吉田松陰がわが国の工学教育に果たした先駆的役割などを、映像やパネル、レプリカの展示などにより楽しく学ぶことができます。
松下村塾が再現されてたり、大板山たたら製鉄所のふいごを体験出来たり、こちらも盛りだくさん

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最後はおみくじひいて、かき氷で一息ついておしまい
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ここでのガイドさんも女性がほとんど。萩は女性のパワーが
そして、ガイドさんたち皆が、萩に誇りを持ってらっしゃって、とても楽しそう

かなり時間が経っていて、帰阪の時間だが、城下町をささっと行くことに

萩城下町
(HP)旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていました。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめています。白壁となまこ壁や黒板塀の美しい町並みが続き、維新の志士ゆかりの地が点在しています。
中央公園に車を停めるとその一角に、久坂玄瑞進撃像 KIMG4650
平成27年建立というから、大河に合わせてかな
松下村塾の双璧と称され、尊皇攘夷派を牽引して国事に奔走し、いまから151年前の元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)にて25歳の生涯を閉じた久坂玄瑞。吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、松陰先生の妹・文(大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロイン)と結婚しました。

夏みかん押しです
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萩市のマンホール 旧萩市章(カタ仮名の「ハ」と「キ」を図形的に組み合わせたもの)
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夏みかんや城下町を表したものもあるらしいが、見つけられなかった
こちらは、道路案内プレート 夏みかんが描かれている
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そして、武家屋敷には藩奨励の夏みかんが植えられています
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収穫期は過ぎていますが、観光用に刈り取らず置かれているとか

高杉晋作立志像
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「誕生地」の近くにある「晋作広場」に、平成22年10月に建立。
銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。晋作誕生地と萩城の方角を向いて建てられています。

高杉晋作誕生地
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幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地。敷地内には、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがあります。
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晋作は、天保10年(1839)に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれました。藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称されました。
文久2年(1862)、外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌文久3年(1863)に身分を問わない我が国初の軍事組織“奇兵隊”を結成。討幕戦を勝利へと導きましたが、胸の病が悪化し、下関・吉田(現:東行庵)に隠居。慶応3年(1867) 結核のため、27歳と8ヶ月という若さでこの世を去りました。

田中儀一誕生地
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第26代内閣総理大臣 田中義一の生誕地。
田中義一は、元治元年(1864)、藩士・田中信祐の三男として誕生。陸軍大将から政界に入り、昭和2年(1927)金融恐慌の渦中に内閣総理大臣となり、支払猶予緊急勅令(モラトリアム)を発行し、銀行取りつけ騒ぎを沈静化しました。昭和3年、第1回普通選挙法を施行。同年、張作霖爆殺事件が勃発し、昭和4年、責任を問われて総辞職しました。ニックネームは「おら(俺)が大将」。
辞任の時は、昭和天皇に強く叱責されたといい、そのショックで亡くなった、との話もあります。

美しい白壁となまこ壁がつづく
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旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残されている。ここ菊屋横町は「日本の道百選」の一つに選ばれている。


菊屋家住宅 表からだけで、中には入りませんでした
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藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史。主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定。


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木戸孝允旧宅
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西郷隆盛、大久保利通と並び「維新の三傑」と詠われた木戸孝允、別名“桂小五郎”の生家。当時の藩医の生活様式を見ることができます。この建物、通りからみると平屋建てのようですが実は2階建てなんです。参勤交代などで通るお殿様を見下ろさないようにとの配慮なのだそうです。中に入ると、誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されています。

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木戸孝允は、天保4年(1833)、萩藩医・和田昌景の長男として生まれました。後に藩士・桂家の養子となり“桂小五郎”の名でも知られています。藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となり、文久2年(1862)藩の要職に就き京へと出て国事に奔走。慶応元(1865)年、藩命により姓を“木戸”と改め、翌年、坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと“薩長同盟”を結び明治維新に尽力。維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残しました。明治10(1877)年、西南の役の途中で病死。享年45歳。

現在4時過ぎ、この後、インターを梯子しながら大阪に帰ります(夜中帰着)

わずか2日でしたが、楽しい山口探訪でした。
特に萩は、歴史がぎゅうぎゅうに詰まっていました。
1日やそこらでは観きれませんでした。いつか、また。
そして、このブログを書くときに、萩市のHPがとても参考になりました。
すごく詳しく書いてあり、わかり易かったです。
そして、萩のガイドさんたち、本当にありがとうございました。
旅が2倍にも3倍にも楽しくなりました。
ガイド、かくあるべき、と自戒した2日間でした。