山口探訪②より続き

秋吉台より、車を走らせ、3時半頃、萩市に着きました。
松下村塾などを回るのには時間がないかと、とりあえず、萩城に行くことに。
すると途中で、大照院を見つけました。
前日、少し下調べをした時、萩にはお殿様の菩提寺が2か所、東光寺とこの大照院
(参照 http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/edomin.cgi/kihu/_t6btDcM.html)
山口毛利家の墓地は、二地に分けられています。初代と偶数代藩主の墓は、萩市内の大照院にあります。また三代以後の藩主の墓は同市内の東光寺にあります。 こうした分け方は、中国の儒式墓葬の形式を取り入れたものです。昭穆制といものがあり、これは宗廟における太祖以下代々の配置を述べたものです。太祖の廟を中央に造り、二代・四代・六代・・・・という偶数代は太祖廟を背にして左側に廟を造り、三代・五代・七代・・・・という奇数代は同じく右側に廟を造ります。偶数代を昭といい、奇数代を穆といいます。廟には木主(位牌)を安置します。周代の制度とされますが、実際は戦国時代以後に整備され今議論される形になったものです。

ふむ、このようなお墓の分け方には、儒教の考えがバックにあるのですか。

(萩市のHPより)霊椿山大照院は、臨済宗南禅寺派の寺院で、荒廃していたものを、2代藩主綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提所とするために、承応3年(1654)から明暦2年(1656)にかけて再建しました。隣接する萩藩主毛利家墓所は、秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主と夫人及び一族、秀就に殉死した7藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基あります(国指定史跡)。
当寺は延享4年(1747)の火災で焼失しましたが、6代藩主宗広によって寛延3年(1750)に再建されました。本堂、庫裏(くり)、書院、鐘楼門、経蔵は国指定重要文化財に指定されています。また寺宝類も多く、国指定重要文化財「木造赤童子立像」をはじめ、県指定文化財「木造釈迦如来坐像」「木造義翁和尚倚像」など、貴重な文化財があります。

鐘楼門(山門) 重要文化財 三間一戸二階二重門、入母屋造り、初層の屋根中央に唐破風
寛延3年(1750)再建
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毛利氏の紋、一文字三星がみえる
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毛利氏は、鎌倉幕府草創の功臣大江広元の四男季光に始まる。そして、大江氏が祖とする阿保親王は、平城天皇の第一皇子であったことから一品の位にあり一品親王と称された。大江氏はこの一品の文字を図案化して「一文字に三つ星」の紋を創出、用いるようになったのだという。


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門はなかなか立派なのですが、ただいま、修復工事中のため、重文の本堂、経蔵などは全く見れませんでした。
また、工事の車や人が出入りしていて、足元も悪く、まさに、工事中
萩は、まだまだ見たいところもあるので、いつの日かまた。訪れたいです。
ほら、こんなに文化財がいっぱい!
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まずは、萩藩主毛利家墓所へ

(HPより)大照院墓所は、萩藩初代藩主毛利秀就以下2代から12代までの偶数代の7藩主と夫人および一族と秀就に殉死した7藩主の墓52基などがあり、総面積5717.39㎡である。
墓の周囲には、玉垣22か所、鳥居7基、石燈籠600数基、石橋1架、参道の石畳などの石造物と墓所入口の小門1棟がある。これらの墓は、明治以後に移されたものや一部の新墓を除いて、いずれも花崗岩製の五輪塔形である。なかでも藩主夫妻の墓は高さ4.5mの大形である。鳥居や多数の石燈籠は、家臣をはじめゆかりの深い人びとが寄進したものである。

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次の日、松陰の墓所で会ったボランティアさんによると、毛利家の墓所には、3つ特徴的なところがあると
①藩主墓の参道にそれぞれ鳥居がある
②藩主夫妻の墓が同じ場所に同じ大きさ(他は、奥さんの墓は小さかったり、別のところにあったり)…萩では女の人が強かった?
③600余基の石灯篭…殉死が禁じられてから、寄進されるようになったとか。まるで。中国の兵馬俑だと。
ちなみに、時間の関係で行けなかった、藩祖毛利輝元の墓がある天樹院、ここでは奥さんのお墓は輝元公のより小さいそうです。

大照院庫裏 建物は桁行18.3m、梁間18.3mの広大なものである。屋根は切妻造本瓦葺妻入で南西面に庇がついている。江戸時代初期から中期に移るころの建築で、絵様彫刻によく時代の様相が現れている。庫裏としては県内随一の規模をもち、藩主の菩提寺にふさわしい風格を備えている。(HPより)

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塀が。。。次に来たときは。。。
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入ります
ここに珍しいものが
赤童子立像あかどうじりゅうぞう  重要文化財
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赤童子とは天孫降臨のときの使者として知られている天児屋根命で春日社の祭神の一つといわれている。赤童子については他にほとんど類例がなく、奈良県大和郡山市の植槻神社に赤童子の絵画(室町時代)があるくらいである。
本像は像高六十一.二センチ、ヒノキ材の寄木造で、玉眼に水晶が入った彩色像である。鎌倉時代末の作と考えられている。この像の特筆すべきことは、中国の宋朝様式が混入していることで、上衣の肩の曲線文の飾り、両襟の渦巻型円文などは宋朝様式の影響を示すものである。また、頭上の鋼製の宝冠は長い年月の間に失われて現存するものが少なく、制作当初のものが残っているのは珍重すべきことである。躰は唐服をまとい、上腹部に帯をしている。左右に束ねた髪や袖口の反り、裳の上腹部あたりの厚ぼったい感じは鎌倉末期ごろの作といえる。


大照院を出て、萩城へ(車ですぐ)

萩城跡
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そう、ここは世界遺産
明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業は、2015年第39回世界遺産委員会UNESCO世界遺産リストに登録された日本の世界遺産の一つであり、山口福岡佐賀長崎熊本鹿児島岩手静岡の8県に点在する。西洋から非西洋世界への技術移転と日本の伝統文化を融合させ、1850年代から1910年幕末 - 明治時代)までに急速な発展をとげた炭鉱鉄鋼業造船業に関する文化遺産でありを含む世界遺産は日本では初めてとなった

萩では、反射炉や造船所跡は行けませんでしたが、萩城下町と松下村塾を今回訪れました。
まずは、萩城下町について
幕末から明治維新にかけて日本の近代国家形成を主導した西南雄藩のひとつ、長州藩の中心拠点。1604年に毛利氏の戸城として指月山に萩城が建造され、麓に城下町が形成された。武家屋敷や商家が連なる「萩城城下町」は国の史跡に指定、重臣の屋敷が並ぶ「堀内地区」は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定。登録面積は96.9 ha(緩衝地域712.31 ha)である
本日は萩城。
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萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城である。別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。
毛利元就は、関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより、
安芸国ほか8か国で112万石の大大名であったが、敗戦により隠居のうえ嫡男の秀就に家督を譲るように命じられ、2か国29万8千石[7]余に減封された。周防国長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。指月山の山麓にある平城本丸二の丸三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令によりなど他の建物と共に破却され、石垣(水堀)のみが現存している。

また、上の地図でもわかるように、萩の城下町は三角州になっている。
鉄道(山陰本線)は城下町の三角州を避け大きく迂回しています。もし仮に、鉄道が旧城下町(三角州内)を通過し、萩駅がその中央に配置されていたら、今の萩の町の様相は一変していたのではないかと思います。。。と、次の日、ガイドさんに聞いた話です。
だから、城下町が、とてもよい状態で残っているのですね。
住んでいる人には少し不便な所もあるかもわかりません。
でも、皆さん、萩の町に誇りを持ってらっしゃるようでした。
とても、一日や二日ではまわりきれません。
本当に、またいつか、ゆっくりと訪れてみたいものです。

毛利輝元公の像 萩城築城主
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彼は、長州藩の藩祖であり、初代は息子の秀就

石垣が残っています。
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夕焼け

萩藩歴代藩主が祀られている志都岐山神社(しづきやまじんじゃ)
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かつての県社で、毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を5柱として、初代から12代まで萩藩歴代藩主が祀られています。

神社に架かる橋は、萩藩校明倫館より移築された太鼓橋万歳橋ばんせいばし)
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橋の右手には楫取素彦小田村伊之助)が寄進した井戸が残されています。1879年(明治12年)に寄進されたものだそうです。
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楫取素彦は、2015年の大河「花燃ゆ」で、主人公の2番目の夫で、初代群馬県令になった人ですね。
大沢たかおさんが演じていました。

ここにも、毛利氏の紋、一文字三星がみえる
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城址散策 東園
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すぐ近くは海 海水浴客も
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門跡や土塀などが残っています
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毛利家一門のひとつである厚狭毛利家の武家屋敷KIMG4539
(HP)厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を祖とし、毛利氏の萩移封後、厚狭(現山陽小野田市)に知行地を与えられたことから、このように呼称され、8371石余りを領しました。萩屋敷は約15,500㎡の広大な敷地を誇っていましたが、主屋などは明治維新後に解体され、安政3年(1856)に建てられたこの長屋のみが残っています。
梁間5メートル、桁行51.5メートルの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されています。5つに区画された内部には土間がなく、特に東の座敷は狭いながらも畳廊下を配した格調高い造りであることから、身分の高い者に対して用意された詰所であったと思われます。 
【国指定重要文化財】
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お城の模型と写真
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萩城を後にして宿へ 宿からは、日本海が一望
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萩で続けて記事を書くつもりでしたが、長くなったので④に続く