山口探訪①より続き

瑠璃光寺より車で30分ほど、秋芳洞に着きました。

(HPより)秋芳洞は、秋吉台の南側のふもとにある広谷ポリエの奥に、ぽっかりと口をあけた日本屈指の大鍾乳洞です。古くから地元の人々に瀧穴と呼ばれ、知られていました。明治40年頃より、イギリス人のエドワード・ガントレット氏により洞内の探検や調査がおこなわれ、初めて海外に紹介されました。瀧穴は大正11年3月には国の天然記念物に指定され、今まで大切にまもられてきました。また、大正15年5月、昭和天皇行幸の際ご覧になり、「秋芳洞(あきよしどう)」という新しい名前を賜りました。
秋芳洞は、入口の高さが20m、幅が8mで、洞くつの長さは8,700mあります。洞くつ内に入ると幅40m、天井の高さが15mぐらいで、見学できる長さは約1,000mつづく巨大鍾乳洞です。洞くつの奥は、本洞と支洞との2つに分れ、支洞は観光洞で、本洞の奥は水没しており、そこから先は3,500mほど潜水調査されています。秋芳洞内には、鍾乳石や石筍、石灰華などがたくさん見られます。
秋芳洞をのぞいてみよう

秋芳洞はどうしてできた?雨水は、地上に落ちる途中で空気中の炭酸ガスをふくみ、秋吉台上に降ります。台上に降った雨は、地殻変動などで石灰岩にできた多くの割目にそいながら地下にしみこんでいきます。この時、雨水にふくまれているわずかな酸により、石灰岩の割目は少しずつとかされて水路となり、しだいに大きくなります。また地下水は小石や砂などを流し、地下水位がさがるにしたがって洞くつは下へ下へととかされたり、浸食され、大きな空洞となっていきます。洞くつがしだいに大きくなると天井や壁がくずれ落ちて、さらに大きな洞くつになります。大きな空洞ができて、さらに地下水位がさがると、洞くつの発達が止まり天井や壁・床面に鍾乳石や石筍、石灰華などの二次生成物ができはじめます。

秋芳洞はどうしてできた?

秋芳洞の誕生鍾乳洞が雨水や地下水などの影響によってできることがわかったと思いますが、秋芳洞もおなじようにしてできた洞くつです。それでは、秋芳洞が鍾乳洞として誕生したのはいったいいつ頃のことだったのでしょう。秋芳洞の年令を、鍾乳石や石筍を使って科学的に調べてみると、今から数十万年前という気の遠くなるような昔にできたことがわかりました。秋芳洞は数十万年のあいだ地下水により、少しずつとかされ、またけずられて、現在のような巨大な鍾乳洞になったのです。

フーム、わかったような、わからないような、とにかく、とてつもない長い年月でできた自然の神秘


駐車場に着きました。
ここから400mほどで秋芳洞に。
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昭和天皇が皇太子時代に来られ、「秋芳洞」と命名されたとか
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禅師河童?
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次のような伝承が
正平9年(1354年)、この地方を大干魃が襲った。水がなくなり田畑は枯れてしまった。この災害に、自住寺の寿円禅師は21日間の雨乞祈願を発願し、瀧穴(現在の秋芳洞)に籠もった。
 一方、この瀧穴にある龍が淵に住む河童がいた。この河童も大干魃には勝てず、川で魚が捕れなくなり、とうとう殺生禁断の自住寺の放生池の鯉を一匹失敬してしまったのである。その直後から、住職の寿円禅師が瀧穴に籠もって祈祷を始めたので、河童は鯉を捕ったことを咎めて呪いを掛けているものと勘違いをした。そこで寿円禅師の祈祷の邪魔をするが、禅師は一向に相手にしない。そのうち河童はその一心さに心打たれ、自ら仏弟子と称して禅師の手伝いをするようになった。
 そして満願の日、禅師の祈りが通じたのか、朝から一天かき曇り大雨となった。瀧穴の中で激しい雨音を聞き取った禅師は大願成就を悟ると、自らの命を天に捧げるために龍が淵の激流に身を投げたのであった。それを見て驚いたのは河童である。禅師を助けようと淵に飛び込んだが、急な大雨で激流となった川で禅師を流さないように守るだけで精一杯。そしてもがいているうちに二つの影は濁流の吞まれていった。
 そして数日後。自住寺近くの川で、村人は寿円禅師の遺体を見つけた。そしてそのそばには河童の死体もあったが、村人が禅師の遺体を引き揚げるのを見届けると、安心したかのようにそのまま川下へ流れていったという。村人は河童の行いを知るに至り、禅師河童と名付けてその徳を称え、厚く弔ったという。
 寿円禅師の遺体は荼毘に付され、その遺骨と灰を土に練り込んで禅師の姿を模した塑像(遺灰像)が造られた。現在、この像は秋芳洞入り口のそばにある開山堂の中に安置されている。

お店が並んでいるところを抜けると、秋芳洞に着きました。
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川沿いを行くと、鍾乳洞に入る前から、ひんやり
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鍾乳洞の入り口が見えてきました
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湿度は高いけど涼しい、夏にはいいですね冬は暖かとか
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説明もなくすみません、約1時間、往復して戻ってきました
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車に戻り、秋吉台カルスト展望台に向かいます。(歩くと熱中症になるとか)
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(HPより)秋吉台ははるか昔、遠い海でサンゴ礁として誕生しました。それから約3億5千万年、ドリーネや鍾乳洞が発達した石灰岩の台地、カルスト台地となりました。石灰岩の中にはサンゴ、ウミユリなどの地球と秋吉台の長い歴史を示す化石が見つかります。
秋吉台はかつては森林でした。中世、農業の発展にともなって日本各地で草原が誕生しました。秋吉台でも木は切られ一面の草原となりました。草は家畜の飼料や有機肥料などに、また、ススキは屋根の材料として大切にされ、良質の草原を維持するために山焼きが行われました。秋吉台の草原は人の営みによって生まれた自然なのです。
秋吉台の自然の楽しみ方は人それぞれ。四季おりおりに訪ね、自分の足で歩き、風を空を岩を生き物を探検してください。きっと、知れば知るほど好きになります。

山口の名産、夏ミカンのソフトクリーム
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車で次の目的地、萩に向かいます。車窓より。
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素晴らしい景色を見て、萩へ、③に続きます。

なお、ソフトクリームを買った時、お店のおばさんに聞いたのですが、
山口では特産の夏みかんから、ガードレールを黄色にした、ということです。
(萩市のHPより)山口県の県道では黄色いガードレールをあちらこちらで見かけます。 
これは、昭和38年の山口国体の開催にあたって、山口県で何か特色のあるおもてなしをしようと考える中で、県道のガードレールを県特産の「夏みかん」の色=黄色にすることになったそうです。
山間部などで見かけるこの黄色いガードレール、山の緑色のなかでとても目立つので、道路がわかりやすく、安心・安全に走行できると好評です。しかし景観面から、萩市内では茶色のガードレールなどが増えてきて、黄色いガードレールは希少となっています。
次の日、車から撮った写真です(走行中なので。。。)
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また、特に山間部を走っている時、民家の瓦が皆、オレンジ色。
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こちらも萩市のHPより
萩のまち、主に山間部のほうでは、赤い屋根瓦の家がたくさん見られます。これは「石州瓦(せきしゅうがわら)」といって、島根県の石見(いわみ)地方で生産されている瓦です。
独特の赤褐色をしており、固くて丈夫、また凍害や塩害に強く水を通さないという性質をもっており、日本海沿岸や内陸部の寒くて積雪の多い地域などでよく用いられています。
山の緑に赤茶色が映えて、美しい景観となっています。

また、これも次の日、萩市のガイドさんに聞いた話ですが、
萩の夏みかんは、明治維新後の武士を救ったと。
今まで禄をもらっていた士族は、維新後給禄奉還で苦境に陥りました。
この時、夏ミカン栽培が奨励され、糊口をしのいだと言います。
さらに、当時、夏みかんは大人気となり、一本木があれば、家族が食べていけた、という話です。
その後、静岡など温暖な地域での生産が主流となり、甘夏などもでき、夏みかんはふるわなくなりました。
そういえば、子供の頃、酸っぱ~い夏みかんを食べた覚えが。

萩夏みかんセンターのHPに歴史が詳しいです。
大正15年5月、当時の皇太子、後の昭和天皇が萩にお見えになった時、「この町には香水がまいてあるのか」といわれたほど、夏みかんの栽培が最盛期で、まさに萩を代表する夏みかんの香りのおもてなしでした。この夏みかんの香りが、平成13年に全国の「かおり風景100選」に選定されています。
生産量は激減したとはいえ、夏みかんと共に歩んできた萩では、今日でも武家屋敷の土塀と夏みかんの「風情」と、夏みかん菓子などの「味覚」として愛され続けています。
とのことです。萩の明治以降は、夏みかんと共に、なのですね

さらに、ガイドさんより、
この長州藩と夏みかんの話は、ブラタモリの「弘前藩とリンゴ」と同じだ、と。
そう、ガイドさんの話を聞きながら、どこかで聞いた話だな~と思ってたのです。
7月のブラタモリ弘前編でやってましたね


旅をしていると、その土地その土地で、珍しい話が聞ける。
また、今はスマホがあるので、少し調べると、答えが出る。
興味→疑問→答え(必ずしもだが)
楽しいな