2017年7月6日(木)  晴れ32℃

梅雨の晴れ間の暑いけど、すがすがしい一日、歴史友達たちと加古川を歩きました。

箕面のボランティアガイドの仲間内、歴史の好きな人たちでMV歴史研究会なるものが出来たのが、2014年4月。
メンバー各自のプランで、毎月一回歴史歩きをします。高槻、茨木などの近隣から、高野山や比叡山にも行っています。初めは付いていくだけと思っていた人たちも、自分でプランニングすると、歴史に興味もより深くなっていき、毎回新しい発見があって、とても楽しいです
今までの歩きは、会を立ち上げたYさんのブログに詳しいです。http://blog.livedoor.jp/yayug7/
今回は、Yさんが欠席のため、つたないブログを書かせてもらいます。
それも、半月以上もたって、大丈夫かな

JR大阪駅集合、約1時間弱で加古川到着
車中では、須磨の海や明石大橋を見たりして、歴史歩きにも花が咲き、プチ旅行気分でした
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後で、鶴林寺のガイドの方に聞いたのですが、加古川は棋士の町としても有名なようです。
王将戦や名人戦を誘致、また、26万の人口にプロ棋士が5名もそのため、将棋駒の産地である山形県天童市が「将棋のまち」を名乗られていることに対し、加古川市は「棋士のまち」を標榜しています。
(今、14歳の天才棋士藤井聡太くんで将棋に注目があたっています!)
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駅からバスに乗り、初めの目的地、教信寺に。
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少し歩いて、教信寺到着
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寺の前は西国街道なのね、私たちの町箕面まで続いている
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教信寺(きょうしんじ)山号は念仏山。播州薬師霊場の8番札所。
開基は、称名念仏の創始者である教信
教信は、延暦4年(786)奈良もしくは京都で生まれ興福寺の僧であったが、奈良の貴族仏教に満足できず、各地を放浪し、現在の加古川市野口町にあった賀古駅家(かこのうまや)の北辺に庵を建て、ここを永住の地とした。
阿弥陀仏の称名を常に口に唱える。いつも西方浄土を念じて念仏を唱えているので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼んだ。彼は僧にもあらず俗でもないので(非僧非俗) ”沙弥(しゃみ)教信”と呼ばれた。沙弥教信は口誦念仏、称名念仏の創始者となる。
教信が貞観八年(866)八月十五日に往生した後、遺跡寺院となった。時の帝清和天皇は教信上人の得を賞し草庵後に観念寺と号する寺を創建した。その後崇徳天皇は念仏山教信寺と勅額し、念仏道場として融通念仏を広めた。鎌倉時代には親鸞上人は「賀古の教信は親鸞が定なり」と敬慕し、又一遍上人が当山に泊し、晩年終焉の地に願う等鎌倉浄土仏教に多大な影響を与えた。
室町時代には堂宇13僧坊48を数える大伽藍(寺伝)になっていたが、戦国時代、毛利勢と羽柴秀吉勢との激戦の地となった。1578年(天正6年)春に兵火により全焼し、1642年(寛永19年)現在の寺領の姿にまで復興した。幕末期に、再び本堂を焼失したが、1880年(明治13年)書写山円教寺の念仏道場を移築し、現本堂とした。
中世から江戸幕末まで浄土宗西山禅林寺派であったが、明治初期の文明開化による廃仏毀釈や廃藩置県の政策で衰退した仏教寺院から復興するご縁で当山は天台宗に改宗した。


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本堂 方形造り

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1880年(明治13年)書写山円教寺の念仏道場を移築したもの
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開山堂  こちらも方形造りでした
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本尊沙彌教信頭像
毎年9月のお祭りでは拝観出来るらしいが、本日は開いていて拝めたメンバーもいた。。羨ましいな

塔頭の法泉院で、教信上人絵解き説法を聞きます(予め、お願いしてます)
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素敵なお庭です
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絵解きをしてくださったのは、法泉院の21代目である長谷川慶悟住職です。
後でわかったことですが、この方の経歴は異色で、
寺の跡取りとして生まれたものの音楽の道に憧れ、世界屈指の名門であるウィーン国立音楽大学に留学後、欧州を中心にプロのコントラバス奏者として活躍されていたそうです。
境内に本格的な音楽ホールを持つことでも知られてるそうです。
「宗教と音楽の融合で人生を豊かにし、今を生きる人のための交流の場を設けたい」これが住職の想いだそうです。
下の写真は、ネットから頂きました。
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下の写真は、寺のパンフレットですが、左上の絵が、二幅の絵伝軸の一部です。

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最初は勝尾寺、勝如の話しから始まる。
浄土宗の開祖は鎌倉時代の法然であるが、浄土信仰は法然の浄土宗より始まったのではなく、源信や空也たち、いやそれ以前からも広く行われていた。日本で浄土信仰を最初に唱えたのが、摂津国勝尾寺の第4代座主の勝如である。
勝如は奈良時代後期781年島下(しもした)(北摂)に生まれた。延暦14(795)年、両親が疫病のため同日同時刻に死亡したのを悲しみ、弥勒(みろく)寺(勝尾寺の古称)に入って出家する。歳月は流れ弥勒寺の高僧と崇(あが)められるが、六道から衆生を救済する為に言語禁断の行を十数年続ける修行を行い説法は無論、一切の布教活動はしなかったので「無言上人」と世間の人から言われた。ひたすら転読を繰り返すうち、ふっと経典が無意味に思われてくる。この勝如を浄土念仏信仰に導いた人物が教信である。
口誦念仏が、教信から勝尾寺の勝如へ伝わるのであるが、その伝わる経緯には、仏教説話独特の荒唐無稽な霊験譚が残されている。
866年8月15日の満月の夜、勝尾寺の勝如の夢に教信が現れ
「私はいま往生を遂げた。あなたも来年の今月今夜、往生されるであろう」と告げて消えた。
不思議に思った証如が弟子の勝鑑を加古川へ遣わすと、間違いなく、念仏三昧の教信なる者が亡くなっていた。教信は入寂後、遺言により亡骸は野に置かれた。体は鳥獣に食われていた。首から上は無傷の状態で綺麗な顔であった。
その説話を今に伝えるよう教信の頭像である沙弥教信上人頭像が作成され、開山堂の本尊とされているのである。
勝如は、教信に畏敬(いけい)の念を覚え、無言の行に徹した自分の愚かさを恥じた。
「無言の行ではだめじゃ。念仏の御利益を世に広めよとの仏の教えだ」、こう考えた勝如は村里に下り、念仏の功徳を説き、出家中心の仏教を批判し、在家を重視する仏法を広めた。
つまり教信によって悟りを開き、集落に中に赴き、衆生と共に念仏の行に入ったのである。
そして、勝如もまた翌年の8月15日に入滅したと云うのである。
勝尾寺の上の東海自然歩道の近くに勝如上人と教信上人の 供養塔が並んでいる。

以上、絵解きの内容は去年、教信寺を訪れていた、歴史研究会先輩Yさんのブログを参照いたしました
http://blog.livedoor.jp/yayug7/archives/15069219.html

住職は、教信寺とゆかりが深い我が箕面勝尾寺も訪れています。
すごくアクティブな印象で、お話もとても面白かったです。
また、暑い日でしたが、庭には水をまき、お抹茶と冷菓のおもてなしを受けました。
ほんとうにありがとうございました

下の駕籠は、この法泉院の歴代住職が葬儀や法務などで外出される際、昭和初期まで使われていたそうです。天皇勅願寺であるため、菊の御紋を頂戴していたため、大名行列が道を譲ったということです。
平成18年から復元展示しているようです。
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教信上人 沙弥廟
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お寺を出て、次の目的地、賀古の駅家(かこのうまや)跡を目指します。

7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を更に拡大するために道を整備した。とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は重要な道であった。街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたった。野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれた。山陽道最大ということは、日本で最大の駅が野口にあったのである。他の駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたが、賀古の駅は、40頭を数えた。奈良から野口まできた山陽道は、加古川の流れにゆく手を妨げられ、野口から日岡山の方へ向かい、升田・大国・岸・魚橋というコースをとった。
賀古の駅のあった場所は、確定していないが、古大内(ふろうち・野口町)に「駅が池(うまやがいけ)」があり、大歳神社あたりから多数の古瓦が多く出土している。この大歳神社あたりに「賀古の駅」があったと想像されている。また、古大内(ふろうち)は、「古大路(ふるおおじ)」が訛ったものであるという。

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駅ヶ池 この池の南を古代山陽道が走っています。古代山陽道は道であると共に、道は池の南の土手にもなっていたと考えられます。駅ヶ池は、奈良時代に造られた池で市内で最も古い池です。
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大歳神社到着 ここは、ニギハヤヒ(の子供)を祀っているんでしたっけ?
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ここに、賀古の駅家跡の碑が
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また、古大内(ふるおうち)城址の碑も
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この城は、あまり歴史背景など詳しくはわかってないようで、日本城郭大系にも「赤松氏の祖、源秀房の城」とのみ説明されているだけです。秀房は平安時代の村上源氏ということです。

加古川市のマンホール 市章の周りに市の花ツツジ なお市章は、 川を中心に配置し、その両岸に発展をつづける加古川市を表しています
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今度は峠池
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調べたら、全国で一番ため池の多いのは
兵庫県です。その数なんと47,596ヵ所。2番目に多い県は広島県で20,910ヵ所。3番目は香川県で15,990ヵ所です。全国では約21万ヵ所のため池があります。
空海つながりで香川かと思ってた。まあ、広さも違うし。箕面も多いですね、ちなみに大阪は5位でした。

市役所到着、暑かった 加古川ご当地グルメ、カツメシ  お腹いっぱい
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昼食後、鶴林寺まで歩きます
20分ほどで行けるのですが、なぜか一部、道に迷い
でも鶴林寺のボランティアガイドさんは嫌な顔一つされず、待ってくださいました。
鶴林寺
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(wikiより)鶴林寺(かくりんじ)兵庫県加古川市にある仏教寺院山号を刀田山(とたさん)と称する。宗派は天台宗、本尊は薬師如来である。近畿地方に数多くある聖徳太子開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つともいうが、創建の詳しい事情は不明である。平安時代建築の太子堂(国宝)をはじめ、多くの文化財を有し、「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺である。
伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり、聖徳太子が当時播磨の地にいた高麗僧・恵便(えべん)のために建立した。養老2年(718年)身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。ただし、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったとみられている。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。戦国時代には近隣の書写山が戦火に巻き込まれたが、播磨姫路領主だった黒田職隆黒田孝高親子の説得で信長派となり戦に巻き込まれず、当時の建築物が多数現存している。のちに福岡藩の大封を得た黒田家は鶴林寺にて大規模な法要を行い、礼として金銀を寄進した。寺には職隆、孝高と交わした書状が多数残っている。
現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉・室町期には寺坊だけで30以上を有する規模であった。

『西の法隆寺』とは、ワクワクです
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境内図 お寺のパンフをスキャンしてみました(私のメモ書き勘弁)
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仁王門 県指定文化財、室町時代(wikiでは、江戸時代、寛文12年(1672年))
3間1戸の楼門形式(階上に座禅堂を持つ)・入母屋造・本瓦葺 大伽藍の正面に位置
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正面には本堂
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まず案内していただいたのは、三重塔 県指定文化財、室町時代 大日如来を祀っています
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三面の鬼瓦 一階南西隅の鬼瓦は3つ顔があるように見える、これを裏鬼門に置いています
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このお寺には、他にも不思議がいっぱいのようだが、ガイドさんに説明してもらって、
元々、三重塔は、仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)をおさめる仏塔であったが、やがてシンボル的な色合いが濃くなり、鶴林寺の三重塔も今や、加古川のシンボルになっている

この塔のすぐ横には、菩提樹の木 花は終わりましたが、葉っぱから実が出ています
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**釈迦(しゃか)がその下で「悟りを開いた」ということで知られ、その由来から、寺院の庭園などによく植えられる。しかし、釈迦が実際に悟りを開いたのは桑科で熱帯樹の「インド菩提樹」の下。今の「菩提樹」とは違う。なぜ間違って伝えられたのか?

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今から800年以上も前に、仏教の禅宗を広めた僧侶の栄西さんが中国の天台山に行き、そこに植えられていた菩提樹を、葉の形がインド菩提樹に似ていることから本物のインド菩提樹だと思って日本に持ち帰って「これは菩提樹♪」としていろんなお寺に植えた、という説がある。(季節の花300より)


その前には、沙羅の木(夏椿) こちらも終わってました
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釈迦が亡くなったとき入滅のとき)、この木が四方を囲んで植えられていたが、入滅の際にこの木が枯れて鶴の羽根のように白くなったとの伝説から、仏教では聖木とされている。

しかし、日本では「夏椿(なつつばき)」のことを沙羅双樹として扱うことが多い。ほんとうは夏椿 ≠ 沙羅双樹  このいわれより、『鶴林寺』と号したと言います

また、鶴林寺は、「関西花の寺、第9番」でもあります

本堂の中には、二つの花の写真が飾っていました
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続いて太子堂 国宝 平安時代天永3年(1112年)の建築
方三間、一重、宝形造りの建物の前に一間の縋破風(すがるはふ)をかけ、
奥行き一間の礼堂をつけたもので
四方を縁ではりめぐらしています。DSC09103
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宝珠をいただいた桧皮葺の優美な県下最古の建築。
本尊は釈迦。文殊、普賢、四天王を祀り、天上に優雅な仏天蓋を吊るす。
室内には長年のススでおおわれた九品来迎図、仏涅槃図、柱絵、その他の壁画が描かれているが肉眼では見えない。下は鶴林寺HPより、赤外線での写真。
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いよいよ本堂 国宝 内陣厨子(ずし)の棟札に室町時代応永4年(1397)の銘
入母屋造、本瓦葺き。桁行(正面)7間、梁間(側面)6間
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内部の宮殿には秘仏の薬師三尊像と二天像(各重要文化財)を安置
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日本の仏寺建築は、和様の時代から鎌倉の初期には大仏様・禅宗様が輸入され、和様との折衷様式が流行し始める。鶴林寺本堂は大阪府河内長野市の観心寺本堂と並ぶ、折衷様式の代表例とされる。
この広い空間が、大仏様
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このS字の柱が禅宗様
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格天井が和様かな
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(HPより)先年の調査で本尊の秘仏薬師如来は平安時代の作と判明した。だが、このお堂は室町時代のもの。つまり、室町時代に再建されたもので床下の土壇は、平安時代の須弥壇の名残ではないかと言われている。
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常行堂 重要文化財 平安時代
正確には常行三昧堂という。常行三昧とは阿弥陀仏の周囲を歩き続けながら念仏を唱えるという天台宗の修行であり、その修行を行うための専門の堂である。かなり格式のある寺院にしか見られないとか。
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(HPより)このお堂を昭和14年に解体修理した時、床下からドクロが30個も発見されたという。何故にこのようなものが?現代では、戦国時代に当地に攻め入ったという秀吉軍との戦の犠牲者を弔ったものとの解釈で落ち着いている。頭蓋骨は埋め戻され今もそのままであるという。。。
なお、先ほどの太子堂は、元来は「法華堂」と称された堂で、本堂手前左方に建つ常行堂と対をなしている(「法華堂」「常行堂」という同形の堂を並べて建てるのは天台宗特有の伽藍配置で、延暦寺、日光の輪王寺などに例がある)。

新薬師堂 江戸時代延宝年間
江戸時代、60年に一度しか御開帳されない本堂の秘仏の薬師如来の代わりに、庶民も毎日拝めるようにと江戸時代に大坂の医師・津田三碩居士により建てられたものだそうです。
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大きいです!そして、このお薬師様、江戸時代作ではないかもミステリーが(もっと古そうですよね)
また、十二神将がおられるのですが、トレビアの泉で有名になったウィンクしている「摩虎羅大将」を皮切りにみなイケ面です!!!
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そして、日光の頭部から津田医師の妻の遺髪が発見されたと産経新聞の記事が貼ってありました。庶民のためだと思いきや妻の供養のためでもあったのか。夫婦愛です
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不開の門跡(あかずのもんあと)
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鶴林寺・浄心院の壁は一部へこんだ造りになっていて、昔から「不開の門跡」と呼ばれています。

聖徳太子が12歳の時、滞在するために建てた「木の丸殿」の門が、あった場所と伝えられ、恵便法師を招いて仏教の教化にあたったと言われています。不開の門跡は、聖徳太子が通った後を誰も通ることのないように塞いだ跡だそうです。
また、不開の門の木組の上の瓦は天皇家の菊の御紋であり、木組が途切れたところからは普通の巴の紋になっています。

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本堂を裏からまわって
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鐘楼 重要文化財 室町時代、応永14年(1407年)
階段を2階に上って撞く一般には少ない構造。外から見ると、建物が袴をはいているように見えるので「袴腰造り」と言われている。
朝鮮・高麗時代に鋳造された梵鐘も重要文化財で澄んだ高い音色は黄鐘調(おうしきちょう)といわれる。
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(HPより)鐘は1000年前の高麗朝のものとされている。朝鮮鐘独特の煙突状の突起が頂上にあり、その音色は千年の歴史を思わせる澄んだ高音である。
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ムクゲ(木槿)の花
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観音堂 江戸時代宝永2年(1705)姫路城主榊原政邦公の寄進により再建
入母屋造り、本瓦葺き、正面一間の向拝付
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秘仏の聖観音前にお前立
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法華一石一字塔 江戸時代明和8年(1771)建立の供養塔
法華経の文字を一つの石に一つずつ書いて千部納め読誦して回向し三界万霊の菩提を弔ったもの
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パワースポットでもあるらしい
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宝物館に
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お宝をたくさん拝見しましたが、一番はこれ!
あいたたの観音さま(HPより)
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白鳳時代に鋳造された「重文聖観音立像」人呼んで「あいたた観音」は正面から見ると腰が左側に曲がっている。何故なのかと言えば、これは昔話。
昔々この聖観音様は全身金箔でおおわれていた。あるとき泥棒が「これは全て純金に違いない」と思い、寺から盗み出して火にかけて溶かそうと試みるが、全く溶けなかった。泥棒が腹立ちまぎれに金槌で観音像の腰を叩くと観音像が「あいたた」と声を発した。それに驚いた泥棒は仏罰を恐れて観音像を寺に返して謝った。それより後、付近の住民はこの観音像を「あいたたの観音さま」と呼ぶようになったが、叩かれた時に曲がった腰は元に戻らなかった。ということである。

こんな模型も
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仏足石
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仁王門入ってすぐ左には、石造りの鳥居が
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神社に鳥居もそう珍しくもないが、この奥には行者堂 小さいが重文である
室町時代1406年(永禄13)の建立。当初は鶴林寺鎮守の山王権現(さんのうごんげん)を祀っていた。前面を春日造り、背面を入母屋造りにした堂で、こうした建物では最古級と言われている。
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明治の神仏分離令より、役行者を祀るようになった
ここでは、護摩炊きが行われている
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仁王門を出て、鶴林寺さんさようなら
じっくり、説明してくださったボランティアガイドさん、ありごとうございました
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バスで加古川駅に、JRで大阪に戻ります
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箕面と縁の深い、教信寺。そして『西の法隆寺』と言われる鶴林寺を訪れて、楽しく学ばせていただきました
本日企画していただいた、Uさん、下見から綿密なスケジューリング、本当にありがとうございました