2017年3月13日(月)(ずいぶん前で覚えてるかな


孫の一歳のお誕生祝いを兼ねて東京へ。
帰阪の前に娘親子と鎌倉を訪れました。
写真はないが、鎌倉駅と八幡宮を結ぶ商店街、小町通りは大賑わい
でも、メジャーな鶴岡八幡宮には行かず、目的地は、
      鎌倉宮
ここは、南北朝時代の悲劇の皇子、護良親王を祭神としています。
建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 別名 大塔宮(おおとうのみや)。

祭神である護良親王は後醍醐天皇皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちべのよしひろ)によって殺められた。

武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。(wikiより)
護良親王は、もりよししんのう、もりながしんのう、大塔宮(東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)の辺りに門室を置いた事から)とも言います・・・
後醍醐天皇の第一皇子、母は源親子、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日1335年8月12日
6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院、後に天台座主。
太平記』によると、武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む極めて例がない座主であったという。

元弘年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗して参戦。

以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐村上義光らとともに十津川吉野高野山などを転々として2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼした。
**なお、私の住む大阪箕面の瀧安寺は、もとは箕面寺と言いましたが、
1332年に後醍醐天皇の隠岐脱出を護良親王の令旨によって修法して功績があり、天皇より瀧安寺(ろうあんじ)の名と勅額を賜り、寺名を改めたといわれています
後醍醐天皇による建武新政下で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛します!
しかし、後醍醐天皇と反目し、征夷大将軍を解任され、1334年、足利尊氏、阿野廉子の讒言により皇位簒奪を企てたとして、名和長年、結城親光らに捕らえられ、鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府(成良親王を長とし尊氏の弟の直義がこれを補佐)の足利直義の監視下に置かれる事に・・・
1335年7月、北条高時の遺児,、時行が信濃の諏訪頼重らに擁立されて反乱を起こし、女影原、小手指原、府中で足利軍を破り、同月25日、一時的に鎌倉を取り戻します(中先代の乱)
これより先の22日に足利直義は、成良親王、足利義詮とともに鎌倉を脱出し、西へ敗走。
この時、時行と護良親王が結びつくのを恐れた直義は、家臣の淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました!・・・親王享年28歳でした


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拝殿の右奥には「身代わりさま」と呼ばれる小さな社もあります。祈る姿のこの武将は村上彦四郎義光という人物で、1333年に護良親王が吉野城に篭って幕府軍と戦った折、落城を覚悟した護良親王の身代わりとなって親王の鎧をまとい、御旗を立てて戦い、壮絶な最期を遂げたという忠臣です。現在では厄除け、病気平癒を祈願する場所になっていて、自らの身体の悪い部分と同じ箇所をさするように撫でれば、病気回復のご利益があると言います。
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そしてこの奥が鎌倉宮の本殿であり、さらにその奥には護良親王が幽閉されていたと伝えられる「土牢」(復元)があります。実は鎌倉宮では土牢跡も見学ができるようになっていて、拝殿の左側にある「参拝受付所」で参拝料を納め、本殿の裏へとつながる道を進んで行くと土牢を目にする事もできます。
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以上、
護良親王に思いをはせ、鎌倉宮を去ります。
当日は急に思い立ってきたので、調べてませんでしたが、鎌倉には護良親王のお墓が理智光寺跡と妙法寺にもあるそうです。
また、
護良親王の首を洗ったと伝わる王子神社が、横浜市戸塚区柏尾町にあるそうです。
いつか、訪れてみたいです。
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可愛い孫よ、また呼んでね

近くの寺を巡ります。。

杉本寺
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杉本寺は天台宗の寺。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の天平六年(734)に創建された鎌倉最古の寺。天平三年(731),関東地方を歩いていた行基菩薩が,鎌倉の大蔵山から町を眺め「ここに観音様を置こう」と思い、自ら彫刻した十一面観音像を安置した。
その後、光明皇后の恩召により、行基が本堂を開創した。文治5年(1189)11月23日の夜、火災が起こったが本尊3体が大杉の下で火を避けられたので,それにより杉の本の観音と今日まで呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。その後,建久2年(1191)9月18日に源頼朝が再興し以前の三尊像を内陣に安置し,別に立像7尺の十一面観音像を寄進した。
坂東観音霊場33番札所制度の時、第一番札所とされた。本尊は十一面観音。

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続いて、報国寺
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美しい竹林を楽しむことのできる「報国寺」は、外国人向けガイドブック「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で3つ星を獲得するほどの人気観光スポットらしいです。
臨済宗建長寺派の寺院。山号は功臣山。本尊は釈迦三尊。境内に竹林があり、「竹の寺」とも称される。
1334年建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれている。1438年永享10年)におきた永享の乱で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺で自刃している。
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鎌倉散策楽しかったです
おまけは、マンホール
鎌倉のマンホール、市章の「ささリンドウ」源氏の紋でもある
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神奈川県のマンホール 県の花ヤマユリ、県の木イチョウの葉、県の鳥カモメをデザイン
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もう一つおまけは、都路里のパフェKIMG3126

もうひとつおまけ
行の新幹線から見えた、富士山 天気がとってもよかったのです
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最後まで読んでいただいてありがとうございました